振返って・・・こんな投稿もしたのだなあ
✱撮影合間をぬって忙しく✱ #投稿日2017.7.19
日本の気候も変わってきました。”線状降水滞”というものが暴れまくるようになり、川の氾濫、土砂崩れと、各地で起きています。それと共に急な天候の変化も・・関東でも一昨日上尾で突風が荒れまくったと思ったら、昨日は江の島でも凄い突風が吹きまくりました。東京も、凄い大風大雨に雷が伴い、場所によっては大粒の雹が降ったところもありました。そして、今日は嵐が去ったあと、関東まで”梅雨明け”たという発表がありました。これからが夏本番となり厳しい日が続きます。
橋蔵さま「修羅時鳥」から「若さま侍捕物帖鮮血の肌着」の撮影の合間のちょっとしたことを書かせていただきます。
撮影の合間も忙しい橋蔵様、1957年2月末には京都南座で催された藤間勘五郎舞踊界会に出演されました。(敬称略)長谷川一夫、中村雁治郎、中村扇雀、市川雷蔵、大谷友右衛門、勝新太郎、中村玉緒、世家真ますみ、藤間大輔、藤間紫、宗家の勘十郎、という顔ぶれで賑やかでした。
昼の部で大輔さん、ますみさんと「松竹梅」を踊り(左上、右上の画像)、夜の部は勘十郎さん、勘五郎さん、雁治郎さんの「寿式三番叟」で後見をつとめ、久しぶりに身が引き締まる舞台であったと言っていました。
1957年3月初めには俳優協会京都支部青年部主催のカクテルパーティーが都ホテルのホールであり、橋蔵さまは幹事として列席し、受付、応対、そしてダンスを踊ったりと大忙しでした。(下の段の画像は若尾文子さんと楽しくお話をなさっているところです)
そんな中、「若さま侍捕物帖深夜の死美人」がクランク・アップして次の「喧嘩道中」までに3日暇があったので1957年3月半ばに約2か月ぶりに東京に帰ってきましたが、ゆっくりと休んでいることは出来ず、東京でも目がまわるような忙しさで京都に戻って撮影に入りました。
そうそう、そう言えばこの時期に、東映に入社して間もない橋蔵さまに、”大川橋蔵松竹に入社”という新聞記事が出たようです。(私は小学低学年でしたし、新聞も雑誌も目を通すことはなかったので、当時は全然知りませんでした)この記事をみたファンの方々は、東映で地位を築きあげてきている橋蔵さまがどうしてと、一時心配したことでしょう。
そして、橋蔵さまの新しい魅力が花開きます。
橋蔵さまは、やくざものに初めて挑戦をしました。「旗本退屈男謎の決闘状」の半次役を見ていて、橋蔵さまのやくざものをいつか書いてみたいとおっしゃっていた比佐芳武さんが戦後片岡千恵蔵さん主演で書いた「おしどり笠」を橋蔵さまのために書き直したリメイク版「喧嘩道中」に挑むことになりました。画面もワイドスクリーンシステムの東映スコープという橋蔵さまの作品では初めてのものになりました。
👆(画像の上をクリックすると画面の違うところで見ることが出来ます)