MENU
89,875

スレッドNo.187

新聞会OG・市橋(二木)都志子さんのこと(訂正)

先般、久々に掲示板に投稿したものの、このところ記憶力の劣化が激しくて何となくスッキリしないのですね。で、ようやく一昨日、二木(市橋)都志子さんの夫君の市橋太郎さんが編み、ごく内輪の関係者に送ってくれた都志子さんの思い出についての追悼集(2016年7月刊)を探し出してみてガクゼン。いただいて直ぐ拝読したはずなのに、ずいぶんぼくの記憶がアイマイでまるでフェイクニュースもどき、事実関係がかなり違っていたのですね。でいまさらですが追悼集に記されていた事柄(ファクト)をふまえ訂正します。
二木さんは卒業後、出版社勤めを経て直ぐフリーランスの編集企画工房を立ち上げ、そこで知り合った画家の市橋さんと結婚。73年7月4日に渡米し、80年1月にニューヨークに転居するまで約6年間、ワシントンの日本大使館の現地採用の事務スタッフとして勤務。週末には日本語学校の教師もしていたそうです。この間、1972年から外務省に出向しワシントンの日本大使館で1等書記官をつとめ1975年に法務省に帰任した堀田力さんはじめ政務班の面々の秘書役をつとめていたそうで、堀田さんの帰任後は堀田さんのお下がりのトヨタ車で通勤していたとか。
追悼集には堀田さんの「都志子さんを偲ぶ」という追悼文なども寄せられていて、当時、大使館の政務班のオフィスには佐藤行雄(後に国連大使)、村田良平(後に駐米大使)、栗山尚一(同)、原田明夫(のちに検事総長)等々、そうそうたる法務・司法関係のメンバーがいてその仕事をサポート。堀田さんは「仕事は速く、間違いはない。頭の回転も大変なスピードであるが、控えめで静かな雰囲気が素敵だった」と記します。‥‥まさにそんな先輩でしたね。
が、1986年7月4日、アメリカの独立記念日の夜、ニューヨーク市ブルックリンの自宅で「喘息」が悪化し病院に急送されたものの逝去、まだ42才でした。なお夫君の市橋さんは1940年新潟・佐渡生まれで、現在はニューヨークと佐渡に仕事場を持ち活躍とあります。
http://taroichihashi.com/jp/biography/

引用して返信編集・削除(未編集)

二木さんは、管理者が1年生として新聞会に入会した時は3年生だった。当時、いろいろお世話にはなったものの、卒業後どこでどうしていたのかは全く知らなかった。横浜通信部・M生さんのこの投稿で大活躍していたことを初めて知った。謹んでご冥福をお祈りいたします。
二木さんが4年生の時の新聞会山中湖合宿の記念写真(当サイトのトップページで使用)。二木さんは後列左から7人目。管理者はさらにその右側5人目、当時2年生。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年12月23日 16:04)

このスレッドに返信

ロケットBBS

Page Top