MENU
89,861

謹賀新年

新年あけましておめでとうございます。本年も当サイトをよろしくお願いいたします。
一年程前までは大量のフェイクアラート広告に悩まされ、一時は使用中止も検討したこの掲示板ですが、現在は比較的安全に使用できるようになっています。(ただし、現在でも稀にフェイクアラート広告が表示されることがあるのでご注意ください。万一開いてしまった場合は電源を切って再起動してください。広告は開かない方が安全です。)
何か新しい情報などあれば、ご自由に投稿をお願いします。ただしこの掲示板は一投稿につき一つのURLしか書き込めない仕様なのでご注意をお願いします。
また、投稿の修正、削除、加筆などには、最初の投稿の際のパスワードが必要になるので、ご注意をお願いします。
廃止されたteacup.掲示板よりは不便であり、投稿も大幅に減少していますが、現存する他の掲示板と比較すると使い勝手は良い方なので、今後もこの掲示板を使用していく予定です。

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年01月15日 22:32)

木立正敏さんの著書『私の吉本隆明体験』刊行

 12月24日の配達で、木立正敏(きだち まさとし)さんという方から『私の吉本隆明体験』(A5判204頁並製表紙PP貼り)という本が届きました。発行日は12月23日。
 何点もの闘争中の懐かしい写真が掲載されています。私が撮影したものもあります。(管理者補注・写真は当会の許諾を得て使用されています。)ちょうど一昨日に教育大跡地へ行き、私たちの学生当時には、ここにパネルと呼ばれたサークル部室が並んでいたという写真をFacebookにアッブしました。そのパネル(木立さんは、サークルボックスと書いている)の写真もありました。
 驚いたことに、「1968年、三里塚闘争で取材中の新聞会の根井康之氏」とキャプションされた写真がありました。林君といっしょに写っているあれです。
 写真にそんなキャプションをつけているということは、本文にも根井さんが出ているはずです。探しました。すると、木立さんは、一浪後に1971年に早大一文に入ったのだが、自治会掌握をめぐって学生が血を流す状況に嫌気をさして退学、72年に教育大に入ったとの記述があった。
 根井さんについての本文での記述はまだ確認していないが、1975年8月の『解放ヘの構想』表紙が、根井さん紹介のキャプションとともに、掲載されていました。
 つまり、木立さんは、永子さんにも連絡が取れているのかな。
 木立さんは、都立高校の主に倫理社会教員として現役時代をすごしたようです。なんと12点の自費出版をしているのは驚きで、すごいものです。
 この本は、こちらのサイトに紹介されています。
https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%90%89%E6%9C%AC%E9%9A%86%E6%98%8E%E4%BD%93%E9%A8%93-MyISBN-%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%B0%E7%A4%BE-%E6%9C%A8%E7%AB%8B%E6%AD%A3%E6%95%8F/dp/4815045836?source=ps-sl-shoppingads-lpcontext&ref_=fplfs&ref_=fplfs&psc=1&smid=AN1VRQENFRJN5

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年01月11日 13:59)

>  驚いたことに、「1968年、三里塚闘争で取材中の新聞会の根井康之氏」とキャプションされた写真がありました。
> 林君といっしょに写っているあれです。

ここに書かれている「林君といっしょに写っているあれです」とは、この写真です。根井君(2014年11月12日)も林君(2013年5月5日)もすでに他界されていますが、根井君のサイト「根井哲学講座」は現在もあります。https://neieiko.web.fc2.com/

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年01月15日 11:26)

新聞会OG・市橋(二木)都志子さんのこと(訂正)

先般、久々に掲示板に投稿したものの、このところ記憶力の劣化が激しくて何となくスッキリしないのですね。で、ようやく一昨日、二木(市橋)都志子さんの夫君の市橋太郎さんが編み、ごく内輪の関係者に送ってくれた都志子さんの思い出についての追悼集(2016年7月刊)を探し出してみてガクゼン。いただいて直ぐ拝読したはずなのに、ずいぶんぼくの記憶がアイマイでまるでフェイクニュースもどき、事実関係がかなり違っていたのですね。でいまさらですが追悼集に記されていた事柄(ファクト)をふまえ訂正します。
二木さんは卒業後、出版社勤めを経て直ぐフリーランスの編集企画工房を立ち上げ、そこで知り合った画家の市橋さんと結婚。73年7月4日に渡米し、80年1月にニューヨークに転居するまで約6年間、ワシントンの日本大使館の現地採用の事務スタッフとして勤務。週末には日本語学校の教師もしていたそうです。この間、1972年から外務省に出向しワシントンの日本大使館で1等書記官をつとめ1975年に法務省に帰任した堀田力さんはじめ政務班の面々の秘書役をつとめていたそうで、堀田さんの帰任後は堀田さんのお下がりのトヨタ車で通勤していたとか。
追悼集には堀田さんの「都志子さんを偲ぶ」という追悼文なども寄せられていて、当時、大使館の政務班のオフィスには佐藤行雄(後に国連大使)、村田良平(後に駐米大使)、栗山尚一(同)、原田明夫(のちに検事総長)等々、そうそうたる法務・司法関係のメンバーがいてその仕事をサポート。堀田さんは「仕事は速く、間違いはない。頭の回転も大変なスピードであるが、控えめで静かな雰囲気が素敵だった」と記します。‥‥まさにそんな先輩でしたね。
が、1986年7月4日、アメリカの独立記念日の夜、ニューヨーク市ブルックリンの自宅で「喘息」が悪化し病院に急送されたものの逝去、まだ42才でした。なお夫君の市橋さんは1940年新潟・佐渡生まれで、現在はニューヨークと佐渡に仕事場を持ち活躍とあります。
http://taroichihashi.com/jp/biography/

引用して返信編集・削除(未編集)

二木さんは、管理者が1年生として新聞会に入会した時は3年生だった。当時、いろいろお世話にはなったものの、卒業後どこでどうしていたのかは全く知らなかった。横浜通信部・M生さんのこの投稿で大活躍していたことを初めて知った。謹んでご冥福をお祈りいたします。
二木さんが4年生の時の新聞会山中湖合宿の記念写真(当サイトのトップページで使用)。二木さんは後列左から7人目。管理者はさらにその右側5人目、当時2年生。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年12月23日 16:04)

体育学部52年卒同期会の掲示板閉鎖

この掲示板は2022年8月のteacup.掲示板の廃止に伴ってロケット掲示板に移動して開設したものだが、やはり同時期に同様の移動をして開設されていた東京教育大学体育学部52年卒同期会の「掲示板―毎日が同期会」(管理者は本純一郎氏)というタイトルの掲示板が、数日前に廃止されてしまったらしい。アドレスは https://bbs1.rocketbbs.com/tuoe52 だが、開こうとすると「404 Not Found この掲示板は存在していません」と表示される。(当掲示板のアドレスはtuoe52の部分がtuenews)
サブタイトルには「情報・提案・連絡等ご自由にお書きください」と書かれていたが、利用者はあまりいないようだった。teacup.からの移動直後に、掲示板の移動開設への利用者のお礼と同期会開催準備のコメントがあっただけだった。teacup.ほどではないにしても、比較的使いやすい掲示板だと思うのだが、なぜそうなるのか。次々と同窓生のサイトが消えて行くのは残念。

引用して返信編集・削除(編集済: 2025年01月14日 22:52)

市橋(二木)さんと堀田力さんの接点 

12月4日(水)、二人の著名人の訃報を目にしました。朝刊で作家の小中陽太郎さん、そして夕刊で元特捜検事の堀田力さん。
小中さんは当月3日、また堀田さんは先月24日に死去。訃報によればともに「老衰、享年90才」とあります。詳細はわかりませんが男性の平均寿命が82才なのでお二人ともそれなりに充実したシニアライフを歩まれたと思いますが、死因が「老衰」とあるともはや傘寿の大台を超え卒寿に向け下り坂を歩みつつあるわが身には他人事ならず。このところ新聞会の先輩方の相次ぐ訃報を知るだけに、あらためて自戒の念を強くしました。
さて、なぜ本欄で? まず先月亡くなった堀田力(ほった・つとむ)さんから。
実はぼくは堀田さんとは全く面識はないのですが、1986年夏に早逝した市橋都志子さん(1962年入学、社会学。旧姓:二木)から堀田さんのことは聞いていたのですね。市橋さんは新聞会でぼくより1期上の先輩ですが、結婚後訪米しワシントンの日本大使館で事務スタッフ(嘱託? アルバイト?)として働いていた折り、堀田さんが在籍していて身近な存在だったと聞いたことがあります。で今回、ウイキペディアで堀田さんの経歴を調べてみると、市橋さんとの接点がわかりました。
堀田さんは1934年生まれ。京大法学部を出て1961年に検事に任官、札幌、旭川、大津、大阪地検を経て1976年、東京地検の特捜部でロッキード事件捜査の中核を担い田中角栄の逮捕・訴追を行ったのですが、この間1972年から外務省に出向しワシントンの日本大使館で1等書記官をつとめ1975年に法務省に帰任、とあります。(退官後の弁護士活動、福祉事業での活躍は省略)
それから10年、市橋(二木)さんは1986年夏にワシントンのポトマック河畔の花火大会を見に行った夜、心臓マヒ?で急逝したのですが、1学年後輩ながら卒業後たまたま市橋さんとは編集稼業上のお付き合いがあったこともあり、何年かに一度帰国するたびに電話があり、急逝する 前に一度、夫君の市橋太郎さんの個展が有楽町の交通会館の地下の画廊で開かれた折、市橋さんご夫妻ともお会いしたことがあります。
さて、長くなったので小中陽太郎さんについては後日‥‥。

引用して返信編集・削除(未編集)
合計43件 (投稿31, 返信12)

ロケットBBS

Page Top