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スレッドNo.255

私見「ゴジラ-1.0」

 ドックです。
 わたしの今年のベストテンから選に漏れた作品のうち、重要な特撮もの2本に関しては、
別途触れておきたく思いまして、別稿としてこちらにあくまで個人的感想を綴ってみます。

 以下、「ゴジラ-1.0」について、ネタバレがありますので、未見の方はご注意ください。


 評論家の岡田斗司夫氏は自身の動画で、「シン・ゴジラ」の庵野秀明監督と、「ゴジラ
-1.0」の山崎貴監督を比較して、「庵野はダサい、山崎はクサい」と発言しています。
 芝居場をやたらと強調するのが山崎節だという指摘でした。

 私も山崎貴監督は「大味」の感があり、根っこのところは岡田氏の見解と同じです。
 元来、映画はテレビと違ってあからさまな心証描写を行いません。難解さを志向する訳
ではないのですが、テレビドラマのようにわかりやすさに走る訳でもないのです。

 「映画は説明に不向きなメディアだ。登場人物にプラカードを持たせて、主張させる訳
には行かない」といった趣旨の主張を、黒澤明監督がしていた記憶があります。
 ゆえに黒澤作品では作品世界を観客に理解させるための最低限の説明を、冒頭で一気呵
成に済ませてしまうことが多かったですね。
 「悪い奴ほどよく眠る」では開幕早々が結婚式の場面で、そこに集う人間関係を招待客
に語らせていますし、「用心棒」では東野英治郎のめし屋の窓などを活用しながら、宿場
町の集団構造や位置関係を一望化させています。
 説明するのではなく、伝える・・・それもうまく伝えることが映画の奥義であり、矜持
だったのです。

 「悪魔の手毬歌」のラストで、東京へ帰る金田一耕助に犯人へのほのかな想いを指摘さ
れた磯川警部が何も黙して語らないのに、駅舎の柱に「そうじゃ(総社)」と書かれてい
て暗に肯定していたような描写こそが、映画ファンを唸らせていたものでした。

 ゴジラ映画中興の祖と言って良い大森一樹監督もこう言っていますね。
「映画って、全部描いてしまったら終わりじゃないですか。何を描かないか、をやりまし
ょう。全部語るのはテレビで十分」。

 対して山崎貴監督は、まるで「説明強迫症」のごとく、描写を執拗に、克明に展開しが
ちなのですね。
 例えば映画中盤で、浜辺美波さんのヒロインが、カメラで撮られるくだりがあり、その
フィルムに写し取られた姿が際立って強調される場面があります。
 誰が見てもフラグであって、その後にヒロインはゴジラによって落命する・・・という
展開を迎えます。この写真が遺影になるのですね。
 そしてその遺影を戦闘機の操縦席に貼り付けて、クライマックスのゴジラ戦に主人公の
神木隆之介さんが挑んで行く訳で、おそらくはここから逆算して、「この時の写真が後々
まで大きな意味を持つ」ことを山崎監督はその起点として強調したかったのでしょう。
 主人公にとっては、この写真が撮られた時こそ幸福のピークであり、その幸福を奪った
ゴジラへ復讐を遂げ、悲しみのその先へ生き抜こうとするのですからね。

 しかしまあ、そこまで強調しなくても、わかるんです。あの時に撮った写真だなあ・・
・ということは、普通に観ていれば観客もわかる。
 ですが「わからないかも知れない」「強く伝えておきたい」と思うがあまり、不自然な
までにフラグを立てるかのような強調を行うという、山崎演出のその「さりげなさの欠如」
が、岡田斗司夫氏に言わせれば「クサい」のであり、私にすれば緻密さ、端麗さを欠いて
いて「大味」な訳です。(つづく)

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 後は雑多な感想を述べて行くことにしましょう。

 クライマックスのゴジラ殲滅作戦は、フロンガスのボンベを使い、深海の圧力差で内部
崩壊を図るというものでした。
 一応のリアリティはあるのでしょうが、何だかウルトラシリーズ(特にウルトラマンタ
ロウのZAT)を観ているようなユニークな作戦で、戦後すぐの昭和22年にこんな大胆
な作戦が決行できるのかな・・・とは思いました。

 機雷掃海艇が海上でゴジラに追われるくだりは、「ジョーズ」を想起いたしました。
 とは言えゴジラ映画ではこれまでに見たことのない場面だったので、新鮮で楽しめまし
たが。
 「ジョーズ」ではベテラン船長、海洋学者、地元警察署長の3人が船に乗り込んで巨大
ザメと対決するのですけど、「ゴジラ-1.0」では少し構成と人数が違うものの、どこか似
通う組み合わせになっています。

 余談ですが、「ジョーズ」における、警察署長がジョーズの姿を実見して呟いた「船が
小さ過ぎる」というセリフは、後にアメリカでは諺のようになったのだとか(三谷幸喜さ
んと和田誠さんの対談本で読みました)。
 「ゴジラ-1.0」でも、自船に対する相手の巨大さに匙を投げるセリフがあったりしまし
たね。

 「ジョーズ」では船に強烈な一撃を与えたサメが、その際に口の中に入った酸素ボンベ
を咥えたまま、追撃して来ようとするシーンがあり、ライフルを構えた警察署長が「くた
ばれ、化け物!」と叫びながら乱射し、その一発が酸素ボンベに命中してサメが爆発四散
する・・・という展開を迎えます。
 これなども、ゴジラが咥えた機雷を機銃で射撃し爆発させて難を逃れる展開とそっくり
ですね。
 ちなみに「ジョーズ」ではこの酸素ボンベの伏線の張り方が巧みなのです。
 陸の上では権限のある警察署長も、船の上では素人も同然。酸素ボンベを雑に扱って、
船長に怒鳴られるシーンがあります。「それが爆発したら、この船ごとオジャンだからな
!」と怒られるのですけど、これが後にジョーズを葬り去る理屈になるのです。
 こういうさりげなさは、山崎貴監督にはできないところ・・・。

 武装解除・自沈を免れていた重巡高雄がゴジラと渡り合うシーンは、興奮しましたねえ。
 戦闘自体はごく短い時間でゴジラの勝利に終わってしまいましたが、高雄の主砲もゴジ
ラに結構効いていましたし、もし連合艦隊が健在だったら・・・戦艦大和や武蔵が現存し
ていたら、ゴジラとどう戦ったのだろう・・・という、特撮ファンの昔からの妄想を具現
化してくれて、こちらも楽しい場面でした。

 浜辺美波さんの乗る電車がゴジラに襲われるくだりは、そんな鉄棒選手みたいに耐えら
れるものか・・・と半ば呆れつつ観ていましたが、あそこまでスーパーウーマンではない
ものの、「キングコング対ゴジラ」(1967)で地下鉄丸ノ内線がキングコングに襲われ、
ただひとり車内で生き残った(他の乗客は振り落とされている)ヒロインの浜美枝さんの
場面を思い出して、オマージュを感じました(そう言えばふたりは名前も似ている!)。

 その浜辺美波さんのヒロイン・大石典子は、ゴジラの放射熱線を爆風から、咄嗟に
神木隆之介さんの主人公・敷島浩一を路地に突き飛ばして、自分は吹っ飛ばされるのです
けど、それならいっそ、自らも一緒になって路地に飛び込めば助かったのではないか・・
・と、つい野暮ながら感じてしまいました。

 病院に収容されている大石典子の顔の負傷の様子ですが、「ゴジラ」(1954)の芹沢博
士と全く同じなのですよね(写真ではわかりにくいですが、芹沢博士は顔に火傷の後があ
ります)。
 ここにも何らかのオマージュあるいはメッセージが込められているのでしょう。

 これまでにないゴジラ映画として、見せ場はいくつもあり、面白くもあって、評価もい
たしますし、次へと続くためにもヒットして欲しいと応援する作品ですが、私個人は「シ
ン・ゴジラ」の方が好きで、ゴジラ映画最高傑作とまでは思ってはいないのですけど、こ
れもまたゴジラ映画だと、愛着も感じている作品となりました。(おわり)

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 ラストシーンを、皆さんはハッピーエンドとして捉えたでしょうか。
 映画には多様な見方があり、観客ひとりひとりが自由にその作品を感じ取れば良いので
あって、ハッピーエンドの映画として捉えることには何の問題もないですし、何の間違い
もありません。
 ただ私は、アンハッピーエンドの映画として、本作を捉えました。
 理由としては、入院先の病室でのヒロイン・大石典子の首筋に見えた(浮き出たと言う
いうべきでしょうか・・・)黒い痣です。

 それを語る前に、少し予備知識をば。
 本作では、ゴジラが放射熱線を吐いた後、命中先にキノコ雲が立ち上るという描写があ
りました。つまりゴジラの放射熱線=原子爆弾と同等のものとして描いている訳です。
 過去のゴジラ映画において、こうした描写はありませんでした。

 ただ「状況証拠」は多数存在しています。
 1作目の「ゴジラ」(1954)にしても、ゴジラ襲撃後の野戦病院のような場所で、科学
者が子供にガイガーカウンターを向けるとガガガ・・・という反応があり、科学者が虚し
く首を横に振るという描写があります(そのオマージュが本作にもありました)。
 第1作から、ゴジラと接することは放射線の被害を受けるということが明示されていた
のです。

 その後も、例えば「ゴジラVSビオランテ」(1989)では、防護服を着た自衛隊の化学班
が、新宿を襲撃したゴジラの飛び散った細胞を回収するシーンがあったりしますし、昭和
の時代のゴジラを扱った書籍では、ゴジラの吐く放射熱線を放射能火炎と表記していまし
た(私もこれらの書籍で学んだ世代です)。

 ですから、ゴジラの吐く熱線で原子爆弾同様の惨禍が生じることは、理論上間違っては
いないことになります(とは言え、そこまでやって良いのか・・・とは思ったりもします
が)。
 是非はさておくとしても、その原子爆弾の爆風に吹き飛ばされた大石典子に放射線によ
る発症が生じても不思議ではありません。

 と同時に、典子を吹き飛ばされた敷島浩一もまた、その現場で「黒い雨」に打たれてい
るのです。典子を失った呆然自失の状況でした。おそらくは長時間、彼は黒い雨に晒され
ていたでしょう。

 この男女にハッピーエンドが待っているのかどうかは・・・ひとによって当然考えは違
うでしょうが、私は悲観的に受け留めざるを得ませんでした。
 「あなたの戦争は終わりましたか」という典子のフレーズも、その意味では違った風に
聞こえますよね。ふたりにとっての戦争は確かに終わった。彼らふたりの存在の消滅とと
もに。
 あのタイミングで電報が届いたのは、病院側が余命幾許もないと判断してのことだった
のかも知れません(逆に言えば、それまではゴジラ被害を国民に秘匿していたのかも・・
・)。(つづく)

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 大味論に戻りますと、その大石典子は映画中盤のゴジラ銀座襲撃の際に犠牲になったと
して描かれ、ラストにおいて生存が確認されますけど、この展開も多くの方にとって早い
時点からわかっていませんでしたか・・・?
 クライマックス直前に、敷島の隣人である安藤サクラさんの元に何がしかの電報が届く
描写があり、そこでもしかしたら生きているのかも・・・と思わせる描写を山崎監督は例
によってこれ見よがしに描写されているのですけど、最初から生存を薄々感じ取っている
と、その描写すら強迫観念に思えてなりません。

 映画ファンほどついついスレた見方をしてしまうのですが、浜辺美波さんという東宝の
自社女優、しかもいま売れっ子の俳優を起用しておいて、物語の中盤でああいう退場のさ
せ方をすることは、まああり得ないのです。

 いや、かつて「君の膵臓をたべたい」でも同様の途中退場を浜辺さんはなさっているの
ですけど、言わば出世作となったあの作品と現段階では女優としての格がもう違っていま
すし、あの作品における浜辺美波さんと北村匠海さんというのは、映画の時制で言えば過
去という括弧の中の男女なのです。

 別の作品を例に挙げますと、「世界の中心で、愛をさけぶ」の場合、映画の看板あるい
はパッケージとしては、大沢たかおさんと柴咲コウさんの主演映画であり、男女の映画で
あり、恋愛映画であり、森山未來さんと長澤まさみさんのペアは物語の過去に位置する関
係性であって、ふたりとも主演ではなかったのですね。

 「君の膵臓をたべたい」では映画のパッケージたる主演は浜辺美波さんと北村匠海さん
ですけど、このふたりは過去のペアであって、映画の視点は独り生き長らえた小栗旬さん
(北村匠海さん演じる主人公が、失意のまま大人になった姿)にあります。

 しかし「ゴジラ-1.0」では、神木隆之介さんと浜辺美波さんが主演のパッケージであり、
作中の現在時制のヒーローとヒロインな訳です。
 そのヒロインがああいう形で役割を終えるはずがなく、映画のラストで「あなたの戦争
は終わりましたか」と語りかけて、それで同時にあのキャラクターの戦争も終わって役が
完結するのですね。

 その昔、邦画の黄金時代においては、主演キャラクターの「入り」と「出」はたいへん
重要に扱われていました。
 主演の登場人物が、開幕早々に出て来るとか、途中から出る場合だったら暖簾をかき分
けて顔を出したり、最初は後ろ姿で、呼び止められてこちらに振り返ったり、グーンとカ
メラがズームで捉えたり・・・そんな見せ方を工夫して主役を立たせたものでした。
 またラストも、最後のアップは主人公と相場が決まっていました。「男はつらいよ」な
んてそうでしょう、最初は寅さんの夢に始まり、ラストは旅先で元気に弾ける寅さんで終
わる。
 そうした様式美が映画には存在していました。

 今日ではそうした映画文法も廃れがちですが、東宝の自社製作映画(念のために記して
おきますが、今日の映画会社は他社が作った映画を配給することが主で、わざわざ自分た
ちで高コストな映画製作を行うことの方が稀です。それでも年に何作かは、ヒットが期待
できるもの、自社のブランドになっているものを製作はします。映画会社として、商売っ
気と同時に、そうした矜持はまだ持っているのですね。ゴジラは東宝にとって、数少ない
そういう存在の映画なのです)で、自社所属の売り出し中の女優を使っていて、ああいう
途中退場はあり得ない・・・と、映画ファンならすぐに悟ったはずだと私は思いました。
(つづく)

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 それで言えば、今回はこの神木さんの演じる主人公の抱える「負い目」(それが映画に
冠されたマイナスの意味の一端を担っているのではないか、と私は思ったりするのですが)
が映画の核になっています。

 「ゴジラ」(1954)に端を発する東宝怪獣映画は、それがパイオニアであるがゆえにオ
ーソドックスで、怪獣を超自然現象に等しく扱っています。
 本多猪四郎監督の自然観とも言えますが、そうした世界観の中では主人公を含めた人間
たちは、主ではなく従の存在でした。
 怪獣に対しその退治も含めさまざまに活躍はいたしますが、それらの諸反応や諸感情は
対症療法的で、基本的には傍観者の立場にあります。受動的なキャラクターなのですね。
 その受動的なキャラクターをして物語を展開させるために、彼らの職業設定が新聞記者
や科学者、自衛官というお決まりのパターンになっていた訳です。

 この傾向は復活した「ゴジラ」(1984)でもそのまま踏襲されていて、それが80年代と
いう時代においてはさすがに古色蒼然といった感もあり、大プロデューサー・田中友幸氏
は新しいタイプの活劇を作れる人物として、大森一樹監督に白羽の矢を立てます。
 その大森監督が描いた「ゴジラVSビオランテ」においては、職業設定こそ科学者、自衛
官、政治家があてがわれていますが、人物は格段に能動的になっていますね。
 国家間の謀略の犠牲になった娘の遺伝子とゴジラ細胞をバラに移植して、永遠に枯れな
いものにしようとしたものの、それがビオランテという怪獣を生み出してしまう白神博士
しかり、左遷された自衛官として平時のゴジラ監視対応を担わされ、しかしひとたび各国
間の遺伝子をめぐるバイオウォーズに巻き込まれるやいぶし銀の活躍を見せ、最後には至
近距離からゴジラを撃つ実行部隊の長を務める権藤一佐しかり。
 あるいは特佐という、実際の自衛隊には存在しない階級を持つ黒木翔だったり。
 「噂のヤングエリート集団」と呼ばれている、防衛庁特殊戦略作戦室=対ゴジラ作戦の
ための特別教育・訓練を受けた自衛隊員で構成される防衛庁の特別部署に彼は所属してい
て、自衛隊の中のタテの関係性を横紙破りする人物として描かれています。
 彼は防衛大学を首席で卒業し、対ゴジラ戦においては陸上・海上・航空の全自衛隊を指
揮する権限を与えられていますから、統幕議長の決定を独断で無視しているほどです。
 その最たる存在が、ゴジラを察知し、精神感応まででき得る超能力少女・三枝未希でし
ょう。
 現実性から一歩フィクションの世界に踏み出した、マンガのようなキャラクターが横溢
して、作品世界を活性化させていくのです。

 それが2000年代になると、自らのミスのために落命させてしまった先輩の復讐のため、
機龍=メカゴジラを操ってゴジラと砕け散るまで激闘を演じる自衛隊員の家城茜が生まれ、
2020年代になると自らの負い目を引きずり、やがて復讐から生きる意思へとゴジラとの対
峙を通じて死生観を改めて行く敷島浩一が生まれて行くのです。

 すなわちゴジラ映画の歴史は、対峙する側の人間の自我の肥大化である・・・と言って
もいいでしょう。
 時にはゴジラを超えるくらいに、敷島浩一の自我が映画の場を占め、中心になっている
くらいです。
 ゴジラという超自然に翻弄される小さな人間という存在を描いた本多猪四郎監督=昭和
ゴジラとも、攻略対象としてのゴジラに対し受動的ではなく能動的に関わって行く特異な
キャラクターを散りばめた大森一樹監督=平成ゴジラとも、巨大災害や有事の化身とも言
えるゴジラに対し社会集団としての日本人総体がぶつかっていく庵野秀明監督=シン・ゴ
ジラとも異なる、ゴジラと1対1で深い絶望と苦渋に満ち満ちた個人が向き合うのが
山崎貴監督=マイナスゴジラであって、遂に人間はゴジラと渡り合えるところまで自我を
肥大化させたのです。

 だからこの敷島浩一は、自分の中の思念を語る語る・・・ここまで内面の心理をアウト
プットした主人公もおらず、「さりげない伝達描写」に長けていない山崎監督作品ならで
はのキャラクターと言えるのですが、しかしこのドラマ性がヒットの要因、ひとによって
は「ゴジラシリーズ最高傑作」などとまで言われる状況を見ていると、それが良いか悪い
かは別にして、時代のニーズは「説明過多、情緒過多」にあり、そうでないと観客の共感
は得られないのかも知れません。

 ただこの終始負い目を抱えた敷島浩一ですが、観ているとその負い目は首尾一貫という
訳ではないのですよね。
 映画冒頭で、特攻に臨みながら、搭乗機のトラブルを訴えて攻撃を中止し、大戸島に着
陸した行為は確かに散華した同僚たちへの背信行為であり、彼が負い目を感じても不思議
ではありません。
 しかしそれと、その夜になってゴジラが島を襲撃し、搭乗機の20ミリ機銃をもっての
攻撃を要請されたにもかかわらず、それを拒んだために整備部隊はほぼ全滅してしまった
・・・という負い目とは、全く異質のものではないでしょうか。

 前者は消極的背任ですが、後者はその機銃攻撃が実際に効果があったかどうかは別にし
て、敵前逃亡に等しい行為であり、積極的背任と言っても良いほどです。
 彼の責任は遥かに大きいはずであり、自責の念ももっと強烈なはず・・・。
 つまり、ここで彼の負い目は二層構造、あるいは前者が後者に上書きされてしまってい
ます。
 そして物語の後半は、その負い目がなくなった訳ではないのでしょうけど、明らかに最
愛のひと・大石典子を失わせたゴジラへの復讐の比重が大きくなっている。彼の負い目は
救えなかったヒロインひとりに向けられているような気さえします。
 ここでも負い目の対象が変わっているのですね。
 まるで負い目の三色団子を敷島浩一は手にして右往左往しているようで、三色団子であ
る以上それは、物語の進行と共に右肩上がりに増大していく1つのコアなモチーフとは言
い難い気もします。(つづく)

引用して返信編集・削除(未編集)

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