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スレッドNo.260

私見「シン・仮面ライダー」

 ドックです。
 わたしの今年のベストテンから選に漏れた作品のうち、重要な特撮もの2本に関しては、
別途触れておきたく思いまして、別稿としてこちらにあくまで個人的感想を綴ってみます。

 以下、「シン・仮面ライダー」について、ネタバレがありますので、未見の方はご注意
ください。


 さて、本作は賛否両論あるようですが、それに真正面から意見する訳ではないものの、
自分なりに思うところを述べることにいたします。


 昨年、「シン・ウルトラマン」が公開された折、私は「シン・ゴジラ」との比較の中で、
これは「山ひとつ越えた物語」であると感じました。
 すなわち、「シン・ゴジラ」は現実社会にゴジラが出現したことにおけるポリティカル
フィクションだった訳で、これは言うなれば不可思議とそれによって生ずる「センス・オ
ブ・ワンダー」が向こうからこちらにやって来ているのです。
 私たちは現実の地表から動いていない・・・日常と地続きの視点で非現実的事象を目撃
するのですね。

 「シン・ウルトラマン」の場合、導入部に「シン・ゴジラ」同様、巨大不明生物「禍威
獣」が出現し、やがてこれを迎え撃つ組織として禍特対が設立される・・・というところ
までは私たちの同じ地表に物語は存在しています。
 向こうからこちらにやって来ている訳です。
 ただそこに、ウルトラマンという巨人が現れ、やがてメフィラスやゾーフィなど外星人
が横行するようになると、これはもうSFフィクションとなって我々の住む現実世界の山
ひとつ越えた先で物語が展開されることになります。
 ウルトラマンが好き、SFを見慣れている、特に思想がなくどんな映画も受け入れる方
であれば、山ひとつ越える映画鑑賞的「脚力」はお持ちなのですけど、そうではないひと
たちにとっては、共感から遠い映画になってしまいます。
 このあたりが「シン・ゴジラ」と「シン・ウルトラマン」の興行収入の差のひとつの要
因になっているように私は思いました。

 そして「シン・仮面ライダー」においては、「山ふたつ越えた物語」になっているので
す。
 ここには傍観者はいません。基本的に、当事者ばかりが存在しています。
 ゴジラや禍威獣の出現に驚いた一般の人々、振り回される現実社会などの要素が極めて
希薄なのですね。
 つまりそれは、観客が物語の入口として入って行く視点を仮託する人物も場もないとい
うことになります。
 いや、主人公の本郷猛が実はその役割で、巻き込まれ型の主人公として開幕早々、追手
に追われていますし、人間とは思えない体になった自分自身やその背景について、緑川博
士やその娘ルリ子の説明を受けています。
 観客は本郷の目、耳、あるいは腕や足を通してこの作品の世界観を体感していくのです。

 とは言えこの本郷も、暴力とそれに抗う力への欲求、それと反目する精神=優しさへの
こだわりとなる原体験的絶望を観客には隠したままなのですので、必ずしもすんなりと彼
への共感は生まれません。
 ましてや彼が戦闘中に撒き散らす血しぶきや、マスクの下の人ならぬおぞましい姿を見
ていますからね・・・共感にはどうしても一線が引かれるのです。

 オリジナル(テレビ版)の「仮面ライダー」ならば、冒頭部分に改造前の本郷猛の日常
が描かれるなどして「入口」が設けられ、また立花藤兵衛やライダーガールズ、子供たち
など市井の協力者もふんだんに描かれていて、現実的で視聴者と相似な視点が十分用意さ
れていたのですが、本作はそこを刈り込んでいますからね。

 それでも次第に本郷やルリ子の心情がわかり、ふたりの心の交流が理解されて来ると、
感情移入する観客も増えて来るとは思うのですが、どの登場人物もなかなかとっつきにく
いのが難と言えば難です。
 「君を守りたい」と述べる本郷の行動原理も最初はわかりづらいし、ドライで謎めいて
いるルリ子にいたってはなおのことですし。テレビ版では当事者と市井の人々の中間地点
にいる(=ただの人間ではあるが、ライダーの正体を知る協力者)立花や滝にしても、本
作では食えない政府機関・情報機関の人間であって、観客は腹が読めない(とは言え、こ
の両者にも後にその人間性を垣間見せるセリフが用意されていて、そこが味なのですが)。

 本作の一文字隼人に割と好感が集まっているのは、それらと真逆に、彼の陽性のキャラ
クターゆえに発せられる数々のセリフが、人間性をとてもよく伝えるものになっているか
らではないでしょうか。
 特にパリファライズ(洗脳解除くらいの意味の作中造語です)後の一文字の人間くささ
なんて、それが特に表れていますね。

 (少なくとも最初は)感情移入し難いキャラクター群、現実社会の視点および傍観者な
き非現実的当事者世界で構築された本作は、言わば「閉じた世界」であり、その中に作り
込まれた箱庭的な様相を呈しています。
 そのクローズドな内容物の味を好むひとには愛され、そうではないひとの肌には合わな
い。
 「シン・仮面ライダー」はまさにそうした、「仮面の世界」と言える気がします。
(つづく)

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 以下は雑多な事項です。

◆「仮面ライダー」の周辺知識を知っていればいるほど楽しめる
 後半に登場するショッカーライダーは全部で11体。
 正義の側の1号・2号と合算すると「13人の仮面ライダー」となる訳で、これは原作
版の同エピソードにぴったり数が準拠しています。
 加えて、バイク戦の後に生き残ったショッカーライダー6体と正義の仮面ライダーの2
対6のバトルは、テレビ版のにせライダー編とぴったり符合します(こちらのタイトルは
「8人の仮面ライダー」)。

 映画は後半にカマキリ・カメレオンオーグが登場しますが、この2種類の動植物が掛け
合わされた怪人というのは、テレビ版「仮面ライダー」後半のゲルショッカー編での要素
ですね。

 その他、テレビ版のロケ地「三栄土木」を冠したトラックが、映画冒頭で本郷たちを追
いかけているとか、西野七瀬さんが演じた役名がテレビ版の「仮面ライダー」で島田陽子
さんが演じたものと同一(こちらもルリ子の友人役)だとか、映画中盤で1号が足を負傷
するのは、テレビ版撮影時に藤岡弘、さんが足を骨折して一時降板したのと通わせてある
など、ネタは枚挙暇ないほど。
 こちらもYou Tubeにさまざまな考察動画が上がっていますね。

 映画のラストで本郷の肉体が失われても、その精神がマスクに宿り、一文字に「俺たち
はひとつだ」と語らせているのもまた、原作どおりの展開です。 
 庵野監督はこの場面をいちばん映像化したかったようですね。

 その他、監視役として出て来るロボットのKはどう見ても、同じ石ノ森章太郎先生の原
作にしてテレビ特撮版もある「ロボット刑事」だし(主人公の名前もK)、その前身タイ
プのJの姿は、同じく「人造人間キカイダー」だし(主人公の名前はジローで、イニシャ
ルがJとなる)、チョウオーグの青い蝶は「イナズマン」の、そして仮面ライダー0号の
ダブルタイフーンと白いマフラーは「仮面ライダーV3」の要素があって、石ノ森-東映
特撮ヒーローのオンパレードなのでした。

 あ、今さらですが、竹野内豊さんの演じた立花はテレビ版での小林昭二さんの立花藤兵
衛、斎藤工さんの演じた滝は同じく千葉治郎さんの滝和也のオマージュですね。


◆戦闘シーンの賛否
 本作は後半に多用されるCG中心、かつラストのレスリングのような戦闘シーンに違和
感や反対意見が多いようです。
 それは私もわからなくはありません。最初(本当はそれより序盤に戦闘員との戦いもあ
るのですが)のクモオーグ戦が最も魅力的で、次いでバイクも駆使した短めのコウモリオ
ーグ戦が良いものの、後半になるにつれこうした、テレビ版を現代の技術でリブートした
かのような戦闘スタイルが見られなくなり、CGに特化した超人戦へと姿を変え、ラスト
のバトルが泥仕合になってなかなか心スッキリとはいかないものです。

 ただ、ハチオーグ戦で見せた戦闘演出は、実写版「キューティーハニー」の頃から庵野
監督はやっていましたし(ハニメーションと命名していた技法でした)、1号2号の対決
シーンはゲーム的な動きでしたが、背景も含めて画としては味があって観られました。
 ショッカーライダー戦は撮り直しができず没になった、リアルな肉弾戦が観たかった気
がします。

 ラストのチョウオーグ(仮面ライダー0号)戦は、演出として人間くささに傾くべきな
のは理解できます・・・ただ、どうせなら、テレビ版同様、大野剣友会的な武骨な肉弾戦
で観たかったものですが。
 昭和の仮面ライダーは殺陣と体力が身上の大野剣友会が担っていますので「武闘」色が
強いアクションなのですが、「BLACK」を経て平成以降のライダーはJAC(現在のJAE)が
担っていますので体操的な、「舞踏」色の強いアクションになっているのですね。

 ただいずれにせよ、本質的には前述したように「仮面ライダー」とは「絶望を乗り越え
る物語」だと私は思っていますので、残念に感じるところはありつつも、私には許容でき
る場面ではありました。


◆数珠つなぎの構成
 映画的な大長編ではなく、テレビ的な数珠つなぎの構成だった・・・という批判もあっ
たようですが、これはそもそも「仮面ライダー」とはそういうものだと私は思ったりもし
ます。
 「シン・ウルトラマン」だって数珠つなぎでしたからね・・・テレビシリーズを踏まえ
てそのリブートたる映画を作るとなれば、巨大な一本の別話にはし難いでしょう。
 テレビシリーズ総体をリブートしているのですからね。
 想定はしながらも本編では使わなかったものの、クモオーグ編だけを抽出してテレビ放
映したものにはオープニングが付けられていたようですが、「シン・ウルトラマン」でも
冒頭にテレビ版に相似なタイトル映像があったように、「シン・仮面ライダー」もオープ
ニングがあった方が、テレビシリーズのエッセンスをまとめたものですよ・・・というエ
クスキューズが前もって成立したかも知れません。


◆私なりの総論
 庵野監督のこだわりとして、手間暇をかけてテレビ版そっくりの画づくりをしている場
面がいくつもあって、これらは映画監督としてのオマージュでもあり、やってみたい模倣
であり、そしてかつての昭和少年としての究極の「仮面ライダーごっこ」だったとも思い
ます。
 誰でもができる遊びではなく、映画監督として「仮面ライダー」をリブートする権限を
得た者だけが真剣に遊ぶことのできる「仮面ライダーごっこ」であり、それは見物者の立
場で参加している私=かつての昭和少年にとっても快感を伴うものでした。
 予算やスケジュール上の事情も含め残念な要素が散見される本作ではありますが、先述
した根幹の「絶望を乗り越える改造人間の物語」が描かれ、なおかつ「仮面ライダーごっ
こ」が堪能できたのなら、それでいいじゃないですか・・・というのが、私の偽らざる心
情だったりします。 (おわり)

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 本作におけるショッカーの理念は、「人類のめざすべき幸福とは、最大多数の最大幸福
ではなく、最も深い絶望を抱えた人間を救済することである」というもの。
 それゆえ深い絶望を抱えた者をターゲットにして改造し、力を与えるばかりでなく、そ
の者の心から悲しみの記憶を除去し、加えてショッカーの命令に従うことに多幸感を得る
よう、精神も加工しています。
 殺人、疫病ウィルスの流布、人々の洗脳・奴隷化と、改造後の行動から読み取ろうとし
ても、各オーグメントの抱える絶望が何だったのかはよくわからないケースが多いのです
が、元になった絶望から生まれた反作用だけが、残存したのかも知れません。
 ただいずれにせよ彼らは絶望を自力で乗り越えたのではなく、その記憶ごと消されたの
であり、すなわち克服し達観してはいないのですね。

 一方で本郷猛は(そして覚醒後の一文字隼人も)絶望を自らの手元に残しています。
 絶望と向き合いながら、懸命にそれを乗り越えようとしている。

 その乗り越え方には、ふたりの個性の違いが伺われます。
 苦しみながらもその絶望の淵を覗き込み、見据えようとする本郷猛。
 覚醒後、一気にその悲しみの記憶を取り戻して滂沱の涙を流すほど絶望を抱えている一
文字隼人は、しかしその絶望すらも洒落のめす強さも有している。
 仮面ライダー1号2号のエッセンスはここにあると私は思っています。

 テレビ版の「仮面ライダー」の最終回で、ゲルショッカー壊滅後、アメリカに帰って行
く滝和也を見送るふたりの仮面ライダーはそれぞれにこう語りかけます。
 本郷「辛く、苦しい毎日だった」
 一文字「だがそれも、悪が滅んだ今は、いい思い出になるさ」
 現実の苦しみをまっすぐに見据える本郷と、それすらも自らの糧に昇華させていく一文
字。見事な対比であり、どちらにもあるべき大人の姿としての憧れを私は抱きます。
 改造され人間でなくなってしまった悲しみを背負い、血を吐くようなショッカーとの闘
いを駆け抜けたふたりの男。「仮面ライダー」は絶望を乗り越える物語だったのです。

 賛否両論さまざまな意見はありますが、このオリジナル(テレビ版)「仮面ライダー」
の魂(プラーナ)は、本作にしっかりと継承されているのではないでしょうか。
 最終決戦に向かう直前、美しい海に臨む広い砂浜で本郷は立花に励まされます。
 「絶望は、お前だけじゃない。多くの人間が同じように経験している。だが、その乗り
越え方が皆違う。本郷は、本郷の乗り越え方をすればいい」
 このセリフに、「シン・仮面ライダー」の魅力が集約されていると言っても過言ではあ
りません。
 私の胸にも、ぐっと響きました。と同時に、かつて藤岡弘、さんにお会いした時に、直
接かけていただいた言葉を思い出しました。
 藤岡さんが演じた本郷の姿や生きざまに、生きる力を貰ったと伝える私の話を、じっと
耳を傾けて全身で聴いてくださった藤岡さんは、私の手を握り締めて、
 「生きて、生きて、生き抜きましょうね」
 と言ってくださったんですね。
 50年の時を経て仮面ライダーを自らの魂に宿された藤岡さんの言葉も、本作における
セリフも、共に絶望を乗り越えて生き抜くメッセージだったと思います。
 だからこそ、本作のラストバトルの中で本郷が叫ぶ、「人生のすべてに無駄なことなん
てない!」というセリフもまた、胸に響くのです。
 絶望を機械的に除去するのではなく、その絶望すらも人間が生きていく力になるのだ、
と。
 本作では序盤にコミュ障などとルリ子に解説される本郷ですが、その彼がラストバトル
で吐露する、「僕には他人がよくわからない、だから他人がわかるように自分を変えたい。
世界を変える気なんてない!」という言葉にもまた、オリジナルから本作が継承した魂を
感じるのです。
 原典に則り、本作ではそれを叫ばない本郷の重要な言葉が形を変えてそこにあるではな
いですか。
 「変身!」と。 (つづく)

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 今の時代に堂々と世界征服を謳うのは、もはや子供番組でもなかなかやらなくなってお
りまして、いわゆる悪の組織の行動原理もどこか複雑で観念的、タコツボ的になっている
面はあります。
 私などは昭和の時代の特撮ヒーローに慣れ親しんでおりますので、開き直って世界征服
で良いじゃないかと思うのですが、それではリアリティが構築できないのでしょうね。
 本作でもショッカーはショッカーではなく、秘密結社「Sustainable Happiness
Organization with Computational Knowledge Embedded Remodeling」=通称「S.H.O.C.K.
E.R.」。訳すとすれば、「計量的な知能の埋め込み改造により持続可能な幸福をめざす組
織」となり、なかなか面倒くさくもあります。

 作中で描かれる重要要素として出てくる「プラーナ」もまた、本作の理解をややこしく
する要素かも知れません。
 仮面ライダーもオーグメント(改造人間=怪人)もこのプラーナを原動力とし、プラー
ナを失えば消滅するし、プラーナを書き換えられれば人間もオーグメントも洗脳される
(あるいは洗脳解除される)。肉体を失ってもプラーナはマスクなどの中に残存できる・
・・と何でもありですね。
 ショッカーの目的も人類の救済と謳っておりますが、めざすのは人間からプラーナを抜
き取って精神のみの世界(ハビタット)に送り込むことであり、結果としては人類の(肉
体的)滅亡とそう変わりはありません。
 プラーナの考察については、You Tubeに優れた動画も上がっていて、なるほどなあ・・
・と思ったりするのですが、平たく言えば「生命エネルギー」で良いのではないでしょう
か。
 生命エネルギーを増幅されて改造人間となり、生命エネルギーを捻じ曲げられて洗脳さ
れ、肉体は消えても生命エネルギーはモノに宿る・・・要は魂と同義ですね。
 仮面ライダーが風をそのエネルギー源にしていることとプラーナとの関連性も、地球も
一個の生命体ですから、風は「地球の息吹」と考えると、仮面ライダーはそこから生命エ
ネルギーを吸収していると考えても差し支えないでしょう。

 とは言えそうしたプラーナの「生命エネルギー」への置き換えも解釈のための解釈であ
って、「プラーナとはマグガフィンである」と考えた方が、映画の仕掛け的には理解しや
すいかも知れません。
 マクガフィンとはヒッチコックが普及させた映画文法上の用語であり概念です。
 キャラクターの行動理由・動機であったり、ストーリーを進めるうえでのキーアイテム
を指すのですが、しかし物語が成立するならば、それ自体は何であっても良いもの(代替
可能ですらあるもの)のことです。
 すなわち映画上の仕掛け、ですね。
 ヒッチコックはある映画の企画時に、「ウラニウムの入ったワインの瓶」というアイデ
ィアに難色を示したプロデューサーに対して、「ウラニウムがダメならダイヤモンドにし
よう」と提案したと言われています。
 ヒッチコックにとって重要だったのは、ウラニウムという原爆の材料そのものではなく、
それをきっかけにして生まれるサスペンスだったのです。つまり、物語が走り出すならば
その仕掛けは何でも良かった。
 物語にリアリティを与えようとするプロデューサーは、そうした仕掛けについてもこだ
わるのですが、ヒッチコックは「それは単なるマクガフィンだから、そこまでする必要
はない」と述べました。
 ヒッチコックにしてみれば、マクガフィンに過ぎないものに観客が気を取られ過ぎると、
それに続くサスペンスに集中できない。だから、マクガフィンについては軽く触れるだけ
で深追いしなくて良いという作劇術だったのです。

 本作におけるプラーナも、マクガフィンだったのではないでしょうか。
 暴力によって人間の生命を奪い、洗脳によって人間の尊厳を奪うショッカー。
 意図せずして自身に備えられた力を持って、心揺れながらも、人間の自由を守るために、
身近な大切なひとを守るために仮面ライダーは戦う・・・それが成立しさえすれば、プラ
ーナもハビタットも、さほど深追いする必要のないマグガフィンだった気がいたします。
(つづく)

引用して返信編集・削除(未編集)

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