やっと半年ぶりの校正地獄から舞い戻ってきたと思ったら、
極月や片側の席空いたまま 兎波
の恋の匂いの「空」から
大空を掴まんばかり冬紅葉 杜人
と残る思いを「大空」に託したような「冬紅葉」につなぎ
箸遣ひを少し笑はれ冬紅葉 ラスカル
の幼な恋を思わせる流れが続いたあとに、なんとなんと小春日和に浮かれたか、
絶版の文庫本読む草紅葉 ぴのこ
出戻り女かと秋に季戻りするぴのこさんに続いて
草紅葉かつて親しきひとの笑み ハジメ2018
うっかり八兵衛のハジメ2018さんが続いて昔の女の未練にひたるという、なんや今年の冬の小春日和と寒波と馬鹿陽気が入り乱れる流れが続いておますなあ。
一心多助に小言を言う大久保彦左衛門ではないが(例えが昭和で古過ぎ)ここはハイヒールの粗忽長屋かというほど不穏な日本語が墓地墓地飛び交う。もう作者は忘れたので詠み人知らずだが、
ひと色のすがし始まり菊膾
の「すがし」は形容詞のシク活用だから「すがしき」としないと「始まり」を形容しないが、「すがしき始まり」と字余りになるし、何がすがしいのかわからないが
—色をまじへて美(は)しく菊膾 高浜年尾
という先句があるので菊膾の色を清しいと見立てたのだろう。菊膾は食用菊の花びらを茹でて三杯酢などで和えたもので山形では「以の外」(おもいのほか・もってのほか)と呼ばれる。わたくしも一度紫色の「おもいのほか」を食べたことがあるが食用菊の食感は面白かったが甘酢は好みではないので二杯酢なら好んだかも知れないという記憶がある。同じシク活用の昭和の日本人なら誰でも知っている「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ」のサトウハチロー作詞『長崎の鐘』から
ひと色のすがしと思ふ菊膾
とすれば山形の観光協会も喜ぶかも知れないねえ。(*^▽^*)ゞ。
誘ひの美眉書き方菊日和
「美眉(びまゆ)」というと中国の四大美人の楊貴妃と西施が有名で白居易は「長恨歌」では楊貴妃の眉を「宛転たる蛾眉」細く長い蛾の触覚のような超極細の眉に例えていて京都泉涌寺にある「楊貴妃観音」は安禄山の乱で殺害された楊貴妃の生前の姿を宗皇帝が観音像に彫らせたという伝説があり、偶々だがわたくしは御開帳された楊貴妃観音を拝しており、確かに艶なる御姿でした。ちなみにこの泉涌寺はわたくしは人の気配のなき真夏の蝉時雨の砂利道を、大門、仏殿、舎利殿へと降りて行く時にまるで平安時代に迷い込むような心持になりました。
一方の西施は「荘子」に、この美女にうつつを抜かして呉は越に滅ぼされたという傾城の美女の話が載っていて、西施が胸の病いで眉をひそめて歩く姿の美しさを垣間見た村の醜女が真似て眉をひそめて歩いたら、金持は門を慌てて閉ざし、貧乏人は妻子を連れて逃げだしたという破壊的なまでの効力を発したので「顰に倣う(ひそみにならう)」という故事を残している。
「書く」には、ある長さのまとまったものを文章として表現する意味があるので「小説を書く」というように用い、眉は「描く」が用いられる。ただ化粧のプロも間違えているので今は「書く/描く/画く」の違いに鈍感な人が増えているのだろう。
いざなひの美眉を描きて菊日和
恋の句の匂いも菊人形も思わせる添削ということに落ち着くだろう。
なんとなく恥じらふ仕草星月夜
これは「恥ぢらふ」が文語表記になる。「なんとなく」は「それとなく」とかもう少し薄化粧をしたほうが恋の手管が漂うかも。
などと徒然なるままに書き散らしていたら、
冬紅葉うつくしくかつ強き人 兎波
と兎波さんが冬に戻してくれたので、わたくしも冬紅葉でつなぐことが出来てめでたしめでたし。(*^▽^*)ゞ。
写真は妙正寺川沿いの満点星(どうだんつつじ)の冬紅葉。
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