こんにちは。ハジメさんの穀雨のヨーグルトの語感が面白くて、私も考えて虚空にしたのですが、ちょっと外連味が過ぎました。きっこさんに直していただいて、思わず膝を打ちました。ともあれ奥が深く面白いですね。俳句って。
おはようございます。
きっこさん、コメントありがとうございます。
それぞれの方へのコメントなどはその句の味わいがより深くなります。
皆さん、こんばんは♪
>参路急く門にこぼるる花の清 かをり
かをりさん、お母様の介護、本当にお疲れ様です。釈迦に説法だと思いますが、介護によって自分の時間が奪われ続ける日々の焦燥感がイライラに発展しないように、ほんの5分でも空いた時間を、俳句を糧にポジティブで濃密な「自分の休息」として大事にしてくださいね。この句の「急く」に、今のかをりさんの思いが現われているように感じたので、エールを送らせてください。
>藤房の車通らば揺すらるる ハジメ2018
ハジメ2018さん、「車通らば揺すらるる」は最高ですね!通常なら「上五を『藤房や』と切るべき」とアドバイスするところですが、この「車通らば揺すらるる」という時代劇のような表現が楽しすぎるので、もはや上五は「の」でも「や」でも、どうでも良くなってしまいました(笑)
>春惜しむ虚空の深淵覗き見る アリソン
アリソンさん、前の句の「穀雨」を「虚空」に変えての「虚空の深淵覗き見る」というフレーズは、なかなか深みがあって面白いのですが、そこに取り合わせる季語が「春惜しむ」では、せっかくの良いフレーズが100%は生かされません。「虚空の深淵覗き見る」というフレーズは、観念的であって具体性がありません。そこに、同じように観念的であって具体性のない「春惜しむ」という季語を取り合わせると、どこにも具体性のない句、掴みどころのない句、読み手が何もイメージできない句になってしまうのです。観念的なフレーズを詠んだのなら、今の時期の花や魚など、具体的な季語を取り合わせましょう。例えば「チューリップ虚空の深淵覗き見る」とすれば、具体的な季語と観念的な描写の相乗効果によって、まるでチューリップが虚空の深淵を覗き見ているような第三のイメージが立脚してくるのです。
>山藤をびゆんと悟空の筋斗雲 撫子
さすがは撫子さん、いいですねえ。通り過ぎた車が揺らしたハジメ2018さんの藤よりも、野生的で自由奔放な藤が見えて来ました。ただ、上五の助詞は「を」で良かったのでしょうか?確かに「を」は間違いのない「無難な処理」ですが、ここは「に」に冒険しても良かったのでは?‥‥と感じます。
>見られむと歩道に垂るる藤の花 杜人
ひと筋の風や一塊の雲など、誰も目を止めないような対象に立ち止まる杜人さんは、誰よりも季節の声を聴いている一人なのかもしれませんね。山藤に限らず、何も語らない野生の花の多くは、誰の目にも触れずに散っていきます。しかし、杜人さんは、その山藤の心を自分なりに代弁したのです。これも、一つの俳句の形であり、季節への挨拶なのです。
きっこさん、撫子さん、皆さんこんばんは。撫子さんの句に合わせるように小山から藤の花房が垂れてきてくれました。
かをりさん、お久しぶりです。お母さんの介護などご苦労が多いと思いますが俳句はぜひ続けられますように、応援していますよ。