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スレッドNo.188

仏教に詳しい方に質問です。

仏教では欲望を否定し、貪り・怒り・無知の煩悩をセーブし、厭離し消滅させていく道だと思います。 そして、日常生活も、自制を心がけ、悪を為さず煩悩に振り回されないような生活を心がけ煩悩を無くすように努めるのが一般的だと思います。
しかし一方で、
『あえて煩悩を肯定し、煩悩の赴くままに行動し、煩悩の追及に飽き飽きした所で、自然と深い悟りに向かう道もある。』
というとある覚者の方の意見を目にしそれが気になっているのですが、そのような方向性も正しいのでしょうか?
例えば女性の肉体に執着のある方の場合、仏教では、女性との触れ合いを抑制し、不浄観・骨相観などをして煩悩を消滅させるよう努力すると思います。
しかし、その覚者さんの言うところによると、
『あえてその煩悩を肯定し、女性と触れ合いたいならその欲に正直に行動する。そうすることで満足し、煩悩が落ち着き、そうした方が深い悟りに到達しやすいのだ。この方法の方がよっぽど確実で簡単だ。』
といいます。
そして、出家僧侶たちに深い悟り(浅い悟りも含めて)に到達するものがとても少ないのは、このあたり(厳しい禁欲)に原因があるといいます。
自分としては「ブッダの言ってる事と違うんじゃないかなぁ。」と思うのですが、この覚者さんはおそらくかなり深い悟りに到達しているであろうと個人的には思っています。
この事についてアドバイス的なものをいただけたら幸いです。

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先生は10年もこのサイトを運営している方ですよ、確かに住職に間違えちゃうかも?

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的確な説明に感謝いたします。
ここで訂正ですが、皆さまはご住職様と勘違いされている方が多く見られますが、正確には宗教研究者の一人です。先生の著作本を読めば分かりますが、そこら辺の住職より知識は豊富で素晴らしい人格の持ち主です。
ご住職に間違えるのも致し方ないかな?

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お地蔵さん。あなたの考える本物の仏教とは釈尊の説かれた仏教でしょうか。主催人も陥った間違いでしたが、釈尊は出家者に向かって法を説かれたのであって、在家者には別の説き方をされています。出家者の在り方を在家者が実践することは容易ではありません。あなたの言う通り、それはある種禁欲主義だからです。それは出家してのみ可能です。
それに対し、煩悩を肯定し云々とありますが、親鸞聖人のことを指しているのでしょうか。親鸞聖人は比叡山で出家し世間から隔離された環境で修行をされました。しかし、どうしても、俗欲を克服することが、出来ませんでした。
歎異抄の冒頭「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とあります。
ここでの肝心は「往生をばとぐるなりと信じて」の”信じて”という箇所です。自力と他力といいますが、自力の親鸞を他力の親鸞に変化させたのは「信心」です。
つまり、釈尊当時の、或いは、比叡山の修行は自らの努力で煩悩を克服する自力の修行です。対して、親鸞聖人の到達された修行は、念仏しないではいられない「信心の念仏」です。
確かに、釈尊は「信心」は説かれていません。しかし、一方で、「こころを清めよ」とも説かれました。信心は自我を排し、仏に一切合切まかせる生き方です。それは「こころを清める」ことに他なりません。このように、信心他力の道も決して釈尊の説かれた道に違うものではありません。

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