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スレッドNo.214

無題

仏教について聞きたいです。 最近仏教の本を読んだのですが、苦痛を無くすには、欲を無くすることが大事というニュアンスで書かれてました。 そこで引っかかったのですが、仏教を広めて世の中を良くしようという思いそのものが欲なのではないでしょうか?

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法華経・方便品第二(第二章・巧妙な手段)にこうあります。梵文和訳で引用します。
「如来はただ一つの目的・ただ一つの仕事の為に、この世に出現する。それは、偉大な目的であり、偉大な仕事なのだ。如来がこの世に出現する目的となった、如来のただ一つの偉大な目的、ただ一つの偉大な仕事とは、一体何であろうか。それは如来の智慧を発揮して人々を鼓舞(こぶい)する為であって、その為に如来はこの世に出現するのである。如来の智慧の発揮を人々に示す為であり、またそれを人々に理解させ、分からせる為であり、また如来が智慧の発揮するに至るまでの道程を人々に理解させる為に、世尊はこの世に出現するのだ。このことが、シャーリープトラよ、如来のただ一つ偉大な目的であり、ただ一つの偉大な仕事であり、如来がこの世に出現するただ一つの動機なのである。」
少し長い引用となってしまいましたが、お許しください。ここで”如来のただ一つの偉大な目的”としたところは、漢訳では「一大事の因縁」となっており、あまりにも有名な箇所です。
要するに、如来つまり仏の行為は全ての人々(衆生)を成仏させる為であり、だから、究極の利他行なのです。しかし、我々凡夫が仏を真似したところで、仏と同じことを行うことは出来ようがありません。自分の出来る範囲で人の為に行えばよいのです。道を聞かれて教えてあげるのも小さな利他行です。
にたまごさん。あまり深刻になる必要はありません。悪しきことはせず、すべての善きことをせよ(諸悪莫作、衆善奉行)法句経のこの教えは仏の教えの基本です。

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返信ありがとうございます。
利他行は欲望を超えたものてすか、~したいと思ってしまった時点で欲望では無いのか、しかしそれを言い出すと生きていくことも出来ないという無限ループに入って混乱してます(´>∀<`)ゝ

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にたまごさん。確かに、貴君の言う通り、釈尊は「苦しみの原因は欲望である」と説かれました。しかし、そもそも、その「欲望」とは何でしょうか。
釈尊はこう説かれています。「それは、即ち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。それは、即ち、欲望に対する妄執と生存に対する妄執と生存の滅無に対する妄執とである。」
ここで、議論を進める前提として、まずは、再生ということの意味を確認しておきましょう。再生とはインドの人々が考える死生観で「業と輪廻」のことを指しています。つまり、人の今世は過去世の業(行為)の結果であり、人は今世の業により、来世に転生し、この生涯を永遠に繰り返す。この生老病死という苦しみの生涯の回転の輪から抜け出す(解脱する)ことが修行(宗教)の目的である。
業と輪廻は否定をしようがしまいが真理・真実です。釈尊は人間の欲望を否定したわけでありません。釈尊が否定されたのは「妄執」です。妄執とは真実が見えない(妄)結果としての執著(とらわれ)です。
さて、にたまごさんは、仏教を弘めたいということも一種の欲望ではないかと疑問を呈しているわけですが、布教結果にこだわれば、それは執着となるでしょう。
釈尊は教えを弘めよと弟子たちを各地に遣わしました。それは施楽と言って人々に安楽を施すのが目的でした。だから、本物の布教は利他行であって、人間の欲望を超えたものです。人々に本物の御利益(ごりやく)を与えるものです。決して、手前勝手な自己満足な行為ではありません。

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