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スレッドNo.120

老子でジャーナル

老子第29章
 将(まさ)に天下を取らんと欲してこれを為(な)すは、吾れその得ざるを見る。天下は神器、為すべからざるなり。為す者はこれを敗り、執る者はこれを失う。それ物、或(ある)いは行き或いは随(したが)う。或いは歔(きょ)し或いは吹(ふ)く。或いは強く或いは羸(よわ)し。或いは撲(くじ)け或いは隳(お)つ。ここを以(も)って聖人は、甚(じん)を去り、奢(しゃ)を去り、泰(たい)を去る。

 天下をせしめて、うまくしてやろうと思っても、私にはそれがダメだとわかるのだ。天下というものは不思議なしろもので、人間の力ではどうすることもできない。うまくしてやろうとすえば、それを毀(こわ)してしまい、手に取ろうとすれば抜け落ちてしまう。いったい世の中に存在するものはさまざまで、自分で歩く者があるかと思えば、人の尻についてゆく者があり、フーッと息吐く者があるかと思えば、パッと息吹く者もある。ある者は頑丈で、ある者はひ弱く、ある者は挫折し、ある者は堕落する。だから無為の聖人は、度外れを止め、奢りを去り、高ぶりを棄てて対象の自然にそのまま従ってゆくのだ。

※浩→「天下は神器」というのは、天下が人間の計らいを超えた非合理・不可思議な存在であることを言います。『荘子』にも「天下は大器なり」とあります。「為すべからざる」は、人間の力でどうすることもできないということ。「聖人は、甚を去り、奢を去り、泰(大)を去る」の「甚」は極端なもの・過度なこと、「奢」は欲望の過剰な充足で、どちらも不自然な行為とされます。ソロモンの箴言に「驕傲は滅亡に先立ち、誇る心は傾跌に先立つ」とあり、ストアはの哲人帝王・マルクス・アウレリウスの言葉に「自負は恐るべき詭弁者であり、君が価値ある仕事に従事しているつもりになり切っているときこそ、これに最も誑(たぶらか)かされてのだ」とあります。老子もヘブライやローマの哲人と同じように、人間の驕慢な心が、無為自然の道に背く敗亡への陥穽(かんせい=落とし穴)であると強く誡めていました。
 天下が統一され敵がいなくなって安心できたのは稀な例で、大抵の場合は家臣や一族の反乱に悩まされたようです。戦乱が終わるということは、それまで時代の主役であった兵士たちが職を失うということですから、そのケアをきちんとしないと平和が訪れることはない。徳川幕府は外様大名を次々取り潰しましたが、それで浪人があふれたことは衆人の知るところです。この問題に対処する一番有効な手段は外征に出ることで、アレクサンドロス大王やチンギス・ハーンなどはこの成功例です。失敗例は豊臣秀吉でしょう。もう一つの手段は徐々に兵士たちの牙を抜いていくことで、漢の高祖が功臣を次々に粛清したり、さきほどの徳川幕府による大名家取り潰しが良い例です。日本の地理的に外征は困難で源頼朝も足利尊氏もこのタイプでした。古代・中世で外征によって得た領地を保ったまま長期的に政権を維持した好例はローマ帝国で、武力による征服ばかりでなく文化による征服が功を奏したと言えます。乱世になれば自衛のために戦わなくてはならなくなるのでしょうが、場合も武力をもって相手を倒せば安心できるという単純な話ではなく、世を治めるには戦いに勝つ以上の知恵を絞らなければならないでしょう。ロシアもイスラエルももっと智慧を出せばいいのに。「天下は神器、為すべからず」で、その智慧もない者が世界をどうこうしようなどとは思ってはいけない。

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