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スレッドNo.126

老子でジャーナル

老子第32章
 道は常に名無し。樸(ぼく)は小なりと雖(いえど)も、天下に能(よ)く臣とする莫(な)し。侯王若(も)し能くこれを守れば、万物、将(まさ)に自(お)のずから賓(ひん)せんとす。天地は相い合して、以(も)って甘露(かんろ)を降す。民は之に令する莫くして、自のずから均(ひと)し。始め制(き)られて名有り。名も亦た既に有り、夫(そ)れ亦た将に止まるを知らんとす。止まることを知れば殆(あや)うからざる所以(ゆえん)なり。道の天下に在(お)けるを譬(たと)うるに、猶(な)お川谷(せんこく)の江海(こうかい)に於(お)けるがごとし。

 道の変わらぬ在り方は無名であり、名(ことば)を超えている。樸(あらき)は小さくても無名の自然を全うし、誰もそれを道具とすることはできない。もしも王侯が樸のこの自然を全うするならば、万物はおのずから彼に帰服するであろう。天と地は和合して甘露を降らせ、人民は命令するまでもなく自然に治まるであろう。僕がひとたび制(き)られると、そこに名を持つさまざまな器物が生じるが、名を持つ世界が既に生じたからには、名を持つものの限界を弁(わきま)えてゆくのだ。その限界を弁えれば、何事も危なげがない。道ある人の天下の治めるのは、譬えたみれば川や谷川の水が、自のずからにして大河や大海に注ぎ込むようなもので、天下の万物が自のずから彼に帰服する。

※浩→道が無名─名(ロゴス)を否定して、その根源にある名指しがたい渾沌(カオス)─であること、その根源的な全一性が、まだ人工を加えられていない樸(あらき)のままの純粋さに譬えられること、また、その僕が製材されて、さまざまな名を持つ器物となるように、根源的な道のカオスが人間のロゴスの刃によって切り割(さ)かれると、そこの名の世界─知的認識の世界が成立し、名を持つ個物の世界─現実の差別と対立の相(すがた)が成立することについては、すでにこれまで述べられてきた。ここではこれらの論述をふまえて、ロゴスの世界の根源にあるカオスの世界、名(差別と対立)の世界の根源にある道の世界を深く凝視しつつ、名の世界の相対性と限界性をしっかりと見据えるもの、それを見据えつつ相対的であり限界性を持つ一切の個物を一切の個物としてそれぞれに所を得しめるものこそ真に偉大な支配者(王侯)─無為の聖人であり、そのような無為の聖人の支配下においてのみ真の平和が実現することを説明しています。
 「天地、相い合して甘露を降す」は、天地陰陽の二気が調和交合して美味い露を降らせるという意味。男女の性の営みを自然界の現象に擬人化した古代人の発想です。「甘露」はうまい味を持つ露。後生では太平の世に瑞祥として天から降ってくるとされました。仏教では説法の功徳を甘露に譬え、「甘露の浄法」とか「甘露王(阿弥陀仏の別号)」などの語が用いられるそうですが、いずれも『老子』のこの章が起源です。

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