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スレッドNo.132

老子でジャーナル

老子第35章
 大象(たいしょう)を執って、天下に往けば、往いて害あらず、安・平・太=泰(あんぺいたい)なり。楽(がく)と餌(じ)には、過客(かかく)止(とど)まるも、道の口に出ずるは、淡乎(たんこ)としてそれ味無し。之を視れども見るに足らず、之を聴けども聞くに足らず、之を用いれども既(つく)すべからず。

 道を守って天下に往けば、いずくに往くも禍(わざわい)受けず、身は安楽にして平穏また無事である。楽の調べと饗宴には、道ゆく客(ひと)も足を止めるが、無為の真理はそれを口にしても、淡々として世俗の味がない。目を据えて見ても見ることはできず、耳を傾けて聞いても聞くことはできず、それを用いれば尽くせぬ働きがある。

※浩→前の章で「道」の広大無辺さを説明して、ここではそれを承けて「道」の体得者・無為の聖人のあるがままにして安らかな在り方と、その尽きることのない偉大な活用とを説明します。
 老子の“玄”は、余計なもの・けばけばしいもの、青臭いものをすべて除去して、本質的なもの、根源的なもの、本来的なものだけがそこに表れているといった墨の色の単純さを意味しうるものでした。ここでもまた、老子は「玄のまた玄なる」道を“淡乎として其れ味無きもの”として“玄酒(水)”に譬えています。
 音楽は人間の心を楽しませ慰めますが、どんな名曲でもそれをあくどく繰り返せば、単なる騒音でしかなくなります。また、どんな山海の珍味も腹ふくれてなお強要されれば、いたずらに嘔吐をもよおすだけです。すべて過剰なもの・過度なものは永続性を持たず、永続性を持つものは、むしろ単純なもの、淡々としたものだけである。
 老子は“玄”の単純さを愛し、“玄酒”の淡々とした味なき味を愛します。彼は人の耳目を聳動(しょうどう)するもの、ごてごてと煩わしいものを好まず、うわべだけのもの、寄せ集め的なもの、一時的なものをすべて人為のさかしらとして排撃します。彼はあくまで自己と世界における悠久なるもの、永遠なるもの、本質的なるものをその眼で見据えます。彼はその凝視の中から人間の崩れない在り方、崩れてもなお崩れない強靱な生き方を思索し続けます。そして、その思索の中で彼が見出した真理は、すべての余剰と虚飾を切り捨ててあるがままに振る舞うということ、平凡な無為の真理をただ平凡に生きるということでした。老子は、当たり前のことを当たり前に行う無理のない生き方─平凡の非凡んを教える偉大な哲人であると言えます。土着思想の部分を無視して、「すべての余剰と虚飾を切り捨ててあるがままに振る舞うということ、平凡な無為の真理をただ平凡に生きる」という処世法は今の世を生きるヒントになりそうです。

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