野田先生の補正項から
言葉は通じるか
2001年01月12日(金)
日本人は、「ほんとうのところは言葉では言えない」とよく言う。これは、出典をたどると、たとえば『法華経』の方便品に「やみなん、舎利弗よ、また説くべからず。所以はいかん。仏の成就せるところは、第一の稀有なる難解の法にして、ただ仏と仏とのみ、すなわちよく諸法の実相をきわめつくせばなり」と書いてあったり、『中論頌』に、「諸法実相とは心行言語断じ、生なくまた滅なく、寂滅なること涅槃のごとし」などと書いてあるところだろう。ここから、「ほんとうのところは、神秘的直感でもって直接知するしかないのだ」ということになって、言語軽視がはじまったのだと思う。
ところが同時に、『中論頌』には、「もし俗諦(=言語)によらざれば、第一義(=真理)をえず」と書いてある。インド人の理解は、こちらの方に重点があったように思う。言葉を厳密に使うことでもって、語りえない真理を、すくなくとも指し示すことはできると考えたようで、だから論理学が発達したのだろう。
仏教のことはまあいいとして、言葉は「ほんとうのところ」を言い表せるのか?「ほんとうのところ」というのが何であるのかが問題だ。ヴィトゲンシュタインは、言語は世界の写像だと思っていたので、なにはともあれ世界というものが想定されていた。だから、観察不能な事象については、それが存在するとも言えないかわりに存在しないとも言えず、それで「語りえないものについては沈黙しなければならない」ことになるのだろう。
しかし、世界は、初期ヴィトゲンシュタインが思っていたのと違って、コミュニケーションの中で構成されているのだと思う。つまり、「体験の共有」が問題であって、体験が共有されていれば、それを言葉で言い合うことは可能であろう。たとえば、相手が映画の話をしていて、私はそれを見たことがないとすると、いくら相手がていねいに説明してくれても「ほんとうのところ」はわからないと思う。しかし、私もその映画を見ていれば、相手の説明はよく理解できるだろう。
もっとも、言葉が通じているからといって、たとえば映画を同じように見たわけではない。対象が同一かどうかが問題ではなくて、対象と言語との対応関係が同一かどうかが問題なのだ。構造主義だな。ちょっと時代遅れかもしれない。
音楽は通じるか
2001年01月13日(土)
昨日、「言葉は通じるか」という話をしたのは、バッハは貴族のために語り、ベートーベンは都市ブルジョアジーのために語り、バルトークは現代の都市インテリ層のために語ったということの流れだ。
つまり、バッハとかベートーベンとかと私とは、体験を共有していない。「同じ映画を見ていない」のだ。彼らと体験を共有していた社会階層は、絶滅してしまった。だから、彼らの作品は危険じゃない。それがどんなにドラマティックなものでも、たかだか「舞台の上の芝居」でしかない。われわれを巻き込むことはないのだ。だからクラシック音楽とよばれる。
バルトークが体験を共有している階層は今でも健在で、その一人である私は、彼が持っている危機意識を共有できてしまって、それで彼の音楽にはリアリティを感じてしまうのだ。しかし、都市インテリ層という社会階級も早晩絶滅すると思う。そうなれば、バルトークも立派にクラシック音楽の仲間入りだ。もうそれは起こりかけているように思う。演奏会でも放送でも気軽に取り上げられるようになったもの。
どうして私がポピュラー音楽に関心を持たないかというと、やはり体験を共有してないためだと思う。ポピュラー音楽を支える社会階層というものがあって、それに私は所属していないのだろう。だから、言葉が通じないのだ。
ポピュラー音楽とひとくくりにするのはいささか乱暴で、先日、あるロック・ファンで演歌嫌いの友人が、「年寄りたちがいなくなると、演歌は滅びますよね。若い人は演歌を聴かないから」と言ったので、「それは、あなたが都会暮らしをしているからですね。地方に行くと、若い人の演歌ファンもたくさんいますよ」と答えた。だって、地方には、演歌を支える社会階層が健在だもの。つまり、第一次産業従事者たちが、演歌を支えている人たちだと思うのです。日本の工業化で、すくなくとも都市部では、その階層の人口が減って、それで演歌が「通じ」なくなっているにすぎないのだと思う。