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スレッドNo.205

論語でジャーナル’24

 曾子(そうし)曰く、吾(われ)日に三たびわが身を省みる。人のために謀(はか)りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝えしか。

 私は毎日、三つの事柄について私自身を反省する。人の相談に乗りながら、あるいはその人のために行動しながら、忠実さを欠いていなかったか。友だちとの交際に、信義を欠いていなかったか。よくのみ込んでいない事柄を人に教えたようなことはないか。

※浩→今日は弟子の曾参(そうしん)の言葉です。曾参は孔子より46歳年下で門人の中では最も年少グループでした。孔子の没後は、魯の孔子学園の長となりました。その門下の子思(=孔子の孫)の孫弟子が孟子です。
 科学としての心理学では普通は価値判断をしませんが、アドラー心理学は、仮に共同体にとって有益なことを善(適切)、有害なことを悪(不適切)だと決めました。このことで厳密な科学としての地位を失って、一理論となりますが、払うに値する犠牲だと考えられています。そうして、生きる指針として「共同体感覚を生きるように」という思想を与えられました。野田先生は、「この日本語は変だ」と、よくおっしゃっていました。この言葉の定義づけは大変です。もとはドイツ語で、“ゲマインシャフツ・ゲフュール”です。英語訳は、Social Feelingだったこともありますが、これでは単なる受動的な感覚みたいなため、もっと積極性を重視する Social Interestに落ち着いたようです。「社会的関心」と日本語に訳すと、これもまた変で、まことに扱いにくい用語です。野田先生はいっそ、「X28」とか「P30」のような意味のない記号にしたほうがいいともおっしゃいました。これだと、日本語の思い入れが入らないので、言葉の元の意味に遡って理解できるから。
 「他者の“関心”への関心」とも言われます。「自己執着」でないこと。「相手の目で見、相手の耳で聞き、相手の心で感じる」と言われます。競合的でない「協力的な」生き方ということになるのでしょうが、まことに言うは易く行うは難しです。
 「ねえあなた、共同体感覚を生きなさいよ」とか「ねえ、協力しなさいよ」と他者に迫るとこれは誤用です。共同体感覚というのはそれを「自分が生きる」ことです。他者に強いると「縦の関係」ですから、共同体感覚は「横の関係」を生きることです。
 ボーッと生きていると、このことをすぐ忘れます。論語のこの条を常に思い出しながら日々の「自己点検」を怠らないようにします。

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