MENU
45,998

スレッドNo.239

論語でジャーナル’24

 孟懿子(もういし)孝を問う。子曰く、違(たが)うことなし。樊遅(はんち)、御(ぎょ)たり。子これに告げて曰く、孟孫、孝を我に問う。我対(こた)えて曰く、違うことなし。樊遅曰く、何の謂(い)いぞや。子曰く、生けるにはこれに事(つか)うるに礼をもってし、死すればこれを葬るに礼をもってし、これを祭るに礼をもってす。

 魯の家老の孟懿子が孔子を召して、孝行の心がけをたずねた。先生は言われた。「違(たが)えないようにすることでございます」。出てきた先生は、待たせてあった車の御者役の弟子・樊遅に向かって話しかけられた。「孟孫が私に孝行とは何かと質問したので、『違えないようにすること』と答えておいたよ」。合点しかねた樊遅は、「それはいったいどういう意味でございますか?」と言うと、先生は言われた。「生前は親に礼に従ってつかえ、死後は礼に従って葬り、礼に従ってお祭りすることだよ」。

※浩→孔子の孟懿子への「礼の定義」はきわめてシンプルです。政治家の孟氏にあまり細かいことを述べても仕方ないから、大綱だけ述べたのだと思われます。
 野田先生の母上様が亡くなられたとき、先生は、「このことで声をかけてくれるなら“おめでとう”とお願いしたい」と補正項に書かかれていて驚きました。荘子ならそういう心境であっても驚きません。私自信は常識どおり、Eメールで「謹んで哀悼の意を表します」というような弔辞を送りました。
 うちの母が亡くなったときに、本家に電話で連絡して、「お骨を父の墓に収めたい」と言うと、おばさんのような従姉(いとこ=父の長兄の家付き娘)が、ポツンと「さあ、入るじゃろうか」と言うだけで、あとは沈黙でした。「なんじゃ、これは!」。そもそも、父の墓石を建てたとき、まだ元気だった母は、本家の総領(父の長兄)に頼んで、墓碑銘を「大森家代々の墓」としてほしいと、それをしたためた原稿を託していたにもかかわらず、石屋にそれを伝えていなくて、できあがったお墓には「大森活一(父の名)の墓」と刻まれていました。たとえそうなっていても、母のお骨が入っても一向にかまわないではないか。私は従姉にきっぱりと、「もう結構です。こっちで何とかします」と言って電話を切りました。そこで菩提寺に相談して永代供養にしてもらうことにしました。この寺にはまだ永代供養墓碑がなかったのですが、私の提案により初めて建造されました。間もなく寺の墓所に大きな碑ができました。永代供養料として60万円要求されました。うちの母がトップの入居者です。大きな墓碑の周囲を囲むように個人の戒名の入った小さな墓碑が建てられました。その後どんどん増えて、ついには敷地全部が埋まりました。お寺からは、毎年末に年会費の請求が来ますが、これまできちんと納入しています。私もその永代供養墓に入れてもらうつもりですが、さてどうなりますやら。たぶん、「幸福な王子」に出てくる燕さんのような最期になるのではないかと思います。実際、現在、王子=野田先生のご遺産をせっせと運び続けています。ただ違うのは、王子が自らの体の一部を次々に困っている人たちに届けて底をつきましたが、野田先生のご遺産はまだまだ底をつくことはなさそうです。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top