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スレッドNo.249

論語でジャーナル’24

 子曰く、その以(な)す所を視(み)、その由る所を観(み)、その安んずる所を察すれば、人焉(いずく)んぞ痩(かく)さんや。

 先生が言われた。「どんな原因によって行動するかを眺め、どんな理由のもとに行動するかを調べ、どんな信念に支えられて行動しているかを推察するならば、人間はどうして自分を隠しおおせようか、どうして隠しおおせようか」。

※浩→その人の行動を観察する。行動の動機を観察する。その落ち着くところ、すなわち行動の目的とするところを考察する。人間を観察する場合、この3つについて観察を重ねれば、その人間の真実は覆うところなく現れて、隠そうとしても隠しきれるものではない。
 アドラー心理学では「目標追求性」と言って、人間は目標追求して生きていると考えます。追求方法には個性があって、ひとりひとりみんな違った生き方をします。そのスタイルを“ライフスタイル”と言います。世間で「性格」と言われているものです。これがどうやってわかるかが、論語のこの章でわかるところが興味深いです。「この人はいったいどんな動機で、どんな目的でこの行動をするのか」と、極めて簡潔に述べられているのを、野田俊作先生が作られた「勇気づけの歌」ふうに言うと、「ある日の1つのエピソードから、感情・思考・行為をもとに、隠れた目標探すべし」となります。人がどんな状況でどんなふうに行動するか?ライフスタイルを知るには、その人の人生での大事件でなくて、日常の何気ない出来事を分析すれば、その人の認知行動のパターンと価値観(人生で最も重視しているもの=私的感覚)がわかります。この私的感覚を知るには文学的センスが必要だと野田先生はおっしゃいました。私も、たくさんの物語を読み、詩歌を味わい、名曲を聴き、お芝居を観て、落語も聞いてセンスを養っています。そうしていると、身近な人のさりげない仕草や何気ないひと言で、その人の「こだわり」「譲れない一線」、すなわち私的感覚がわかるようになってきたように自分で感じるようになりました。もちろん大外れもあります(笑)。
 お正月に妹が帰省していたときのエピソードがあります。もう何年も前の夏、ゴミ出しの日の朝、早起きした私は妹が起きる前に近くのゴミステーションにゴミを出しに行きました。あとで起きてきた妹に、「ゴミを出しておいたよ」と言うと、妹は、「ウン、見えた」とひと言。二階の部屋に寝ていた妹が目覚めてカーテンを開けたら、私がゴミ出しに行っている姿が見えたそうです。私は「こういうときは『ご苦労様』とか言わない?」と言ったら大爆笑になりました。最近はやりの「エピソード分析」で考え直してみました。このゴミ出しのときの仮想的目標は、「ゴミを出しておいたよ」と言うことで「あ、ご苦労様。助かったよ。悪いねえ」とかいう感謝とねぎらいの言葉だったようです。これで私の「私的感覚」が、「人の好意・貢献にはに感謝すべし」だとわかります。感謝を求めてする行為は美しくありませから、まだまだ修業が必要です。昔から「アテごとと○○は向こうから外れる」と言われますし、礼儀・マナーが消滅しつつある今日、そもそも無理な願いかもしれません。人のことはともかく、せめて自分はいつも気にして心がけていくつもりです。自己満足であっても。「共同体感覚」って、自分が実践することでしたし。

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