論語でジャーナル’24
子曰く、異端を攻(おさ)むるは、これ害あるのみ。
先生が言われた。「織物の両端(これが「異端」の意味でしたか、知らなかった)から一度に巻き始めるように別々の傾向の学問を一度に手がけると、中途半端になって、害しか受けないものだ」。
※浩→ここは難解で、定説はないそうです。上の訳は『世界の名著』の貝塚茂樹先生によります。『中国古典選・論語』の吉川幸次郎先生の解説では、異端は「異端邪説」という言葉があるように、正しくないことが初めからはっきりしている学説を言う、とあります(こちらの“異端”はこれまで知ったいたものです)。「攻むる」とは研究すること。異端の説を研究することは、百害あって一利なしと解釈します。
私は、「異端」という言葉からは、すぐに宗教の「正統」と「異端」の「異端」を連想します。大学の卒業論文で「アウグスティヌスの教父哲学」について書いたとき、異教と異端の区別を知りました。キリスト教からすれば、異教というのは仏教やイスラム教など他の宗教のことで、異端はキリスト教でローマカトリック教でない派を言います。古くは紀元325年のニケーア宗教会議で、イエス・キリストの神性をめぐる議論で、神性を認めて「三位一体説」を唱えたアタナシウス派が正統と認められました。イエスの人間性を強調したアリウス派は異端として退けられました。その後、5世紀にかけて、教父と呼ばれるアウグスティヌスが『神国論』を書いて、キリスト教神学の基礎を確立することになります。アウグスティヌスは若いころ放縦生活を送っていて、そこから血を吐く思いで立ち直る様子が彼の別の著書『告白録』に詳しく描かれています。ああいう苦悩は、アドラー心理学では「スピリチュアル・タスク」と言うのでしょうか。鎌倉仏教時代の日本では、「阿弥陀様のご本願が信じられない」という悩みを持つ人が相談に来たら、これはスピリチュアル・タスクでしたが、今日ではまずそういう人はいないので、わが国ではライフタスクは例の「仕事」「交友」「愛」の3つで間に合う、と野田先生はおっしゃっていました。
その野田先生からは、会議では「敵を論破するな」と教えられました。論敵のほうを向いて発言しない。支持者のほうを向いて、自分の考えることを述べる。話し終えるときに、最も支持してくれそうな人を見て、「ですね」と締めくくると、たぶんその人が賛成意見を述べてくれるでしょうと。ここでも「2:7:1」の法則が効いています。普通、敵の「1」を論破しようとして、そのために多大のエネルギーをつぎ込みます。そしてだいたい失敗します。説得すべきは「7」の人たちです。「2」の人たちは初めから味方です。「1」の人たちはどんなに努力しても味方にはならないと考えます。
「敵を論破するな。味方を増やせ」は現実的な処世訓としても実行していきたいです。