論語でジャーナル’24
季康子問う、民をして敬忠にして勤めしむるには如何にせん。子曰く、これに臨むに荘を以てすれば則ち敬あらん、孝慈ならば則ち忠あらん。善きを挙げて不能を教うれば則ち勤めん。
魯の国の若い家老・季康子が、人民を敬虔に忠実に、そして活発に自発的に仕事をするようにするには、どうしたらいいでしょうかと、孔子にたずねた。
孔子は言われた。「それは為政者の心がけ次第です。きちんとした態度で人民に臨めば、人民は敬虔になり、また為政者が親に孝行であり、人々に慈しみ深ければ、人民も自然に忠実になる。また善人を抜擢するとともに、能力に乏しい者を親切に教え導いてやれば、活発に仕事をしましょう。
※浩→季康子は、名は肥で諡が康です。魯の最も有力な豪族・季氏も、家の相続の争いや、執事が強力となって主人を凌ぐものが出てきたりして、家勢はとっくにかたむいていました。どうしたら国民の信頼を博せるかと、孔子にたずねています。
「正しさを人に向かって望むならば、まず自らを正せ」ということになりますが、アドラー心理学には「共同体感覚」という考えがあります。アドラー心理学は、「理論」と「技法」と「思想」という3つの側面を持っています。科学は思想を持たないですが、アドラー心理学は「共同体感覚」という思想を含むために、純粋科学の座を降りて、一理論ということになります。野田先生は、「共同体感覚」という“言葉”は嫌いだそうです。一般に言われている「共同体」とか「感覚」とかと誤解されるからです。他に適切な訳語がないので仕方なくこう言っています。ほんとは、P30とかX27のようなそれだけでは意味がわからない記号のほうがいいのですが、それではあまりに不便で、仕方なくこの語を使われました。実際、さまざまに誤解されているようです。以前、某地域のアドラー学習グループの掲示板に、私が記録保存していた野田先生の質疑応答を引用掲載したことがあります。それを読まれた東京の某アドレリアンが、「ぜひアドラーネットに載せなさい。共同体感覚でしょ」とおっしゃいました。もちろん載せませんでした。それを機にその掲示板への掲載もやめました。共同体感覚は自分が実践してそれを生きるものであって、人にさせるものではありません。アドラー博士がお弟子さんから、「共同体感覚をどうやって人に教えたらいいか」と問われとき、アドラーの答えは“Live it.”でした。「あなたがそれを生きろ」です。
野田先生は、共同体感覚でなく、よく「協力」とおっしゃっていました。これも他の人に「ねえ、協力しなさいよ」と言ったら協力でなくて強制になります。自分が実践することです。
まず「わが身を正せ」です。偽善者だった(今もそうですが)私もアドラー心理学を学んで、まず自分が偽善者だと抵抗なく認めることができるようになりました。偽善者のままでいいから、少しでも何か世のため人のために役立てないか考えて実践したいです。少なくとも「カルマ」がこれ以上に悪くならないように。結局は私利私欲なんです。