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スレッドNo.271

論語でジャーナル’24

 或る人、孔子に謂(い)いて曰く、子(し)奚(なん)ぞ政を為(な)さざる、子曰く、書に云う、孝なるかなこれ孝、兄弟に友あり、有政に施すと、これ亦(また)政を為すなり、奚ぞそれ政を為すことを為さんや。

 さるお方が孔子に向かって言った。「あなたはなぜ政治にたずさわらないのか」。先生が言われた。「『書経』に『まことにこれをこそ孝行と言うべきではないか。兄弟には仲良く、さらに国の政治にも感化を及ぼすとは』と言っている。これも政治にたずさわることだとすると、何もわざわざ政府に仕えて政治に携わる必要があろうか」。

※浩→ここは難解な箇所です。「或る人」とは季孫氏の家老で陽虎(陽貨)のことで、後に出る「陽貨篇」の陽貨でしょう。この文の大意は、陽虎が「あなたはなぜ政治家にならないのか。政治に対する発言をしながら、なぜ実践活動に入らないのか?」と問うたのに対する答えとして、『書経』を引用して、「私は現にこうして家庭の道徳を高めることに努力している、それも政治なのだ。わざわざ政治家になる必要はない」と答えています。しかしながら、引用した句は現存する『書経』には存在しないそうで、3,4世紀ごろの偽作の『古文尚書』に似た句があるそうです。
 なお、後の「陽貨篇」には、陽虎が孔子に仕官を強要するので断り切れなくて、ついに承諾したいきさつが書かれています。こうなると、余計にややこしい話になります。
 話が脱線しますが、孔子の徳治主義も、プラトンの哲人政治も、為政者が権力でなく自らの人徳によって人民を感化して治める理想の政治を唱えていますが、時の権力者には容れられず、いずれも弟子の教育活動に専念していくという道をたどっています。のちの中国の歴史がそれを如実に物語っています。『三国志』でも、劉備元徳の蜀は結局強大な権力の魏に滅ぼされます。
 アドラーは若いころ、マルクス主義者(暴力革命には反対でしたが)でした。彼は世の中から戦争や犯罪がなくなることを理想として、社会革命を夢見たのでしょうが、実際に起こったロシア革命を見て、大変失望しました。何も変わっていない。政権交代があっただけで、人民は不幸で貧しいまま。結局1人1人の人間の心が変わらない限り、権力者が別の権力者に入れ替わるだけで、人々は救われない。どうしたらいいか。結局は家庭育児と学校教育だと考えました。
 「四書五経」のうちの、『大学』には「格物致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」ということが書かれています。国家天下の平安にはまず、格物致知して意を誠にして心を正し、自分の徳を磨いてわが身を完成する。そうすると一家がまとまる、そうすると国が治まる、そうしてはじめて天下が安定するということです。
 私自身はとっくに「喜寿」を過ぎましたが、「古希」の「七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)をこえず」の心境に達することはできませんでした。今も油断すると矩を超えそうですから常に用心が必要ですが、「元気」「暢気」「安気」がいいです。

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