MENU
45,674

スレッドNo.279

論語でジャーナル’24

第三 八佾(はちいつ)篇
 孔子、季氏を謂(い)わく、八佾(はちいつ)、庭(てい)に舞わす、是(これ)をも忍ぶべくんば、孰(いず)れをか忍ぶべからざらん。

 先生が季氏を評された。「八列六十四人を家の廟(お霊屋:おたまや)の庭(広場)で舞わしめたそうな。これをさえ忍べるとすると、天下に何ごとも忍べないものはないではないか」。

※浩→季氏は、魯国の門閥三家老家の筆頭である季孫氏のこと。孔子が魯国の政治を執った五十代時点の当主は、季桓子(?-BC492)で、別名季孫斯とも言います。隣国斉が送った女楽団を主君定公と共に三日間楽しみ、その間政務を執らなかったので、孔子は魯国を捨てて亡命したとされます。
 八佾(はちいつ)は、八人が八列を作り舞う舞踊で、論語の時代には、天下の主権者たる天子の特権とされていました。この特権を陪臣の家老の季氏が欲しいままに行使したので、孔子が、分不相応だと大憤慨した。このことは「孔子、季氏を謂わく」のところで、「曰く」でなくて「謂わく」と「謂」という強い批判の意味を含む語が使われていることでわかります。
 今でも、自分の立場にふさわしくない派手な行動をすると、「分不相応(ぶんふそうおう)」と言われます。古代ほど固定的・厳格ではないにしても、「時と場合をわきまえた言動」は必要なことでしょう。ものごとの「けじめ」がないとアナーキーになって、とりとめがつかなくなりますから。封建時代と違って、人と人の間に身分の高下はなく、対等な人格として人は尊ばれますが、だからといって、何をしてもいいということにはなりません。野田先生は、人がしたいことをし、したくないことをしない社会は“狂気の社会”で、人がしなければならないことをし、してはならないことをしない社会が“正気の社会”だとおっしゃっていました。どう考えても、今の社会は狂気めいているように感じられます。世界的にもそんな傾向のように感じます。ロシアとかイスラエルの行動からも。アドラーが「より大きな共同体の利益」を考えたことなど、はるか遠くに去ってしまった理想です。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top