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スレッドNo.289

論語でジャーナル’24

 季氏(専横な家老)が泰山で、大きな祭儀を執り行った。先生が冉有を招いておっしゃった。「お前はその大祭を止めることができなかったのか」。冉有はそれに答えて言った。「できませんでした」。先生は言われた。「ああ、何と言うことだ。泰山の神々の祭礼への思いが、先日私に礼について問うた林放にも及ばないと思っているのか」。

※浩→西周時代における中国一の名峰が泰山であり、周王朝の天子は諸侯を集めた泰山で「旅」と呼ばれる大祭を執り行い、自分が天下の正統な君主であることを示したそうです。そういう天子にしか許されていない大切な儀礼を、家老の季氏が不遜にも泰山で行なったので、それを黙って見ていた弟子の冉有に「なぜ、そういった礼楽に背く行いを止めなかったのだ」と孔子が慨嘆しています。
 孔子は正式な弟子でもない林放でさえ、礼について一定の理解を示しているのに、林放よりも礼に詳しくて当然の正式な弟子の冉有が季氏の泰山祭儀を止めなかったことを嘆いています。「嗚呼(ああ)」は重い嘆息の言葉で、『論語』ではここだけに見えます。冉有は孔子より29歳若い弟子で、そのころ季氏の執事でした。「お前は」主人に忠告して、主人を非礼から救済しうる地位にありながら、それができないのか」と追及しましたが、冉有は「できません」で、そこで発せられたのが「嗚呼」で、孔子の深い嘆きがよくうかがえます。師匠が30歳近くも若い弟子にこれほどの嘆きをあらわにするのも、少々大人げない気もしないではありませんが、裏返せば、それだけに「期待が大きかった」ということでしょう。
 私の場合は、もちろん私が「師匠」であるわけではないので、弟子は存在しません。ただ私とおつきあいする中でアドラー心理学に惹かれて一緒に学ぶようになられた方は結構いらっしゃいます。その方々は私からすれば「後輩」になります。これは価値判断を含みませんから、この区別は「弁別」でなくて「分類」です。K先生は「後輩」というより「相棒」のほうがふさわしいです。もう30年以上のおつきあいになります。彼とは「対称的」でもなく「相補的」でもなく、まさしく「上位相補的」なかかわりができているのだと思います。
 津山工業高校在任中の校内研修で学ばれた若者が他校へ転勤されたのちも、アドラー心理学を学ばれています。この方たちとは年齢差が50歳以上あります。価値判断基準に隔世の感がありますが、どうか次代を担うアドレリアンに成長してほしいものだと願っています。さて……。

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