MENU
45,538

スレッドNo.307

論語でジャーナル’24

 子(し)大廟(たいびょう)に入りて、事ごとに問う。或るひと曰く、孰(たれ)か鄹(すう)人の子(こ)を礼を知ると謂(い)うや、大廟に入りて、事ごとに問えり。子これを聞きて曰く、是(こ)れ礼なり。

 (魯の役人時代に)先生は大廟に入って儀礼を一つ一つたずねられた。ある人が言った。「誰が鄹の田舎から出てきた役人(孔子のこと)が礼を知っているなどと言ったのだ?あいつは、大廟の中で儀礼について一つ一つたずねているぞ(あいつは何も礼について知らないではないか)」。先生はそれを聞いておっしゃった。「それ(前任者に一つ一つ丁重に質問をすること)が礼なのだよ」

※浩→古代の礼制について詳しいという評判のあった孔子が、魯で役人として勤めていた時代に、「あいつは、前任者に大廟の儀礼や作法について事々に細かく質問しているじゃないか。礼について詳しいというが何も知らないじゃないか」と揶揄され軽侮されたことがあった。その噂について孔子は、「礼節とは、知らないことを知っていると言って優越感に浸ることではなく、前任者(その道の先達)に敬意を払って、丁重に教えを乞う謙虚さこそが礼の道だ」と語ったのです。相手を見下す傲慢不遜な態度や知的優越感に浸る姿勢こそが、最も礼から遠い振る舞いであることを示した印象的なやり取りです。
 鄹(すう)は土地の名で、孔子の父が地方官として在任していた土地です。その役人の子どもとは、すなわち孔丘(孔子)のことです。
 ギリシャでは、ソクラテスの有名な「無知の知」というのがあります。「無知の知」とは、古代ギリシャの哲学者であるソクラテスの、「知らないことを自覚する」という哲学の出発点に向かう姿勢を簡略して表現した言葉です。この言葉は、「無知の知」ではなく、「不知の知」という表現が正しいとする論もあるそうです。「無知」とは、知識が欠けることや愚かなことを意味していますが、ソクラテスが自覚しているのは「知らないこと=不知」ですから、無知よりも不知のほうが適切なようです。なるほどね。でも、諸行無常は諸行不常とは言いません。「無常」と「不常」とはどう違うのでしょうか?これを追求していくと、もしかしたら「唯識」と「中観」の違いにたどり着くかもしれません。知らんけど。
 ソクラテス以前の哲学者は、哲学の祖と言われるタレスが「万物の根源は水である」と言い、ヘラクレイトスが「万物の根源は火である」「万物は流転する」と言うなど、万物の根源について探求しました。アテネが繁栄してくると、ソフィスト(知者)が主に弁論術を教えていて、中には詭弁を商う者も出てきました。しかしソクラテスは「自分は何も知らない」そして「それを自覚している」といい、自分はソフィストではないとしたのです。ソクラテスの真理を探究する哲学の基本となる概念の「無知の知(不知の知)」は、ギリシャ哲学の流れの中で画期的な考え方でした。
 ソクラテスは「いかに生きるべきか」「より善く生きること」について問い続けました。無知である自分に気づいたとき、人は自分と向き合い、真の知に近づこうとする探求が始まります。それはいかに生きるべきかの探求へもつながります。ソクラテスの「無知の知」は、よりよく生きるための指針でもあります。
 「知」への欲求は「知への愛」とされます。「哲学:フィロソフィー」の言葉のもととなったギリシャ語「フィロソフィア」は「知を愛する」という意味です。
 ソクラテスが「自分が何も知らないということを自覚する」きっかけは、デルフォイの神託「汝自身を知れ」でした。あるときソクラテスの弟子が、「アテネで一番の知者は誰か?」とデルフォイの神託所でたずねたら、「一番の知者はソクラテスである」と告げられます。それを聞いたソクラテスは、そのお告げの意味を解明するため、賢者とされる人や高名な人をたずね歩いて、その結果、みんな「何も知らないのに知っていると思い込んでいる」ということに気づき、自分は知らないということをわかっているという点で知恵ある者だというのが、神託の意味であったと悟ります。
 ソクラテスは「無知の知」出発点として、他者との問答を通じて探求を深めますが、その過程で論駁されたり知らないことを暴かれたりした識者などから激しい憎悪を受けることになって、やがて無実の罪で告訴され、裁判の結果死刑判決が下り牢獄につながれます。逃亡を勧める弟子もいましたが、ソクラテスは「ただ生きるのではなく善く美しく正しく生きることが大切だ。逃亡は善くも美しくも正しくもない」と言って、毒を飲んで自害しました。
 こういうことを昔、高校の「倫理」や「現代社会」で教えていたことを思い出しました。あれから20年以上たちました。あれからどうしていましたか?私も歳を取りました……。美空ひばりさんの(仮想の)ヒット曲『あれから』みたいです。それでも、今年度もありがたいことに、岡山工業高校でアドラー心理学の講座を毎月開かせていただいています。そして、11日(金)から岩手県盛岡市でアドラー心理学会総会が開かれています。今日13日が最終日です。相棒K先生は盛岡はまだ行ったことかないからと、現地へ旅立たれました。羽田まで飛行機で、東京からは東北新幹線で行かれました。若いから行動力があります。私は横着をしてオンライン参加です。残りあと今日の午前中です。今年の総会は、久しぶりに「分科会」が復活して、私は「臨床分科会」に参加してしっかりカウンセリングのおさらいをしました。お二人カウンセラー試験を受けられて、お一人が合格されました。合格の基準がよくわかりました。カウンセラーの問いかけ方によって流れがまったく変わることが眼前で確かめられた気がします。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top