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スレッドNo.316

論語でジャーナル’24

 子曰く、關雎(かんしょ)は楽しみて淫(いん)せず、哀しみて傷(やぶ)らず。

 先生が言われた。「關雎(かんしょ)の詩は、楽しみながらも過度に楽しみ過ぎず、悲しみながらも過度に心身を痛めることもない」。

※浩→孔子は、礼節と音楽(礼楽)が社会秩序の維持に必要不可欠だと考えたように、『詩経』に出てくる詩を音楽として楽しんだようです。『詩経』の「国風」にある「關雎」という歌は、歓喜と悲哀の調和がとれていて、感情の抑制(節度)が適切で絶妙であると評価しています。

關關(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう=みさご)は 河の洲(す)に在り
窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は 君子(くんし)の好逑(こうきゅう)
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は 左右に流(もと)む
窈窕(ようちょう)たる淑女は 寤寐(ごび)に求む
之を求めて得ざれば 寤寐(ごび)に思服(しふく)す
悠(ゆう)なる哉(かな)悠なる哉 輾轉(てんてん)反側(はんそく)す
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は 左右に采(と)る
窈窕(ようちょう)たる淑女は 琴瑟(きんしつ)もて友(した)しむ
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は 左右に芼(と)る
窈窕(ようちょう)たる淑女は 鐘鼓(しょうこ)もて樂(たの)しむ

 なごやかに鳴きあうミサゴの夫婦が川の中州にいる、窈窕たる淑女は、ミサゴの妻のように、君子の妻とするに相応しいものだ
 生い茂った水菜は左右に求めて食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、目覚めていても寝ていても、求めに求めて伴侶にすべきものだ
 窈窕たる淑女を求めて得ることができないならば、目覚めていても寝ていても残念に思うべきだ、ああ残念のあまり、身のもだえる思いがする
 生い茂った水菜は左右に摘んで食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、琴瑟を以てもてなすべきものだ
 生い茂った水菜は左右に選び取って食卓を飾るべきものだ、窈窕たる淑女は、鍾鼓を以て楽しんでもらうべきものだ

 この詩は、配偶者を求めて歌っていることから、中国人にとっては古来、婚礼の席で歌うべきめでたい歌だとされてきました。ミサゴの夫婦が互いに応じあって声を交わすさまを表しているのでしょう。ミサゴに限らず鳥は夫婦仲が良いものであるから、人の婚礼のめでたさを飾るのに相応しいです。また窈窕とは、つつしみ深い美しさのことで、中国人にとって、女性としてあるべき理想を表わした言葉でした。窈窕、窈窕…美しい言葉なのでよく覚えておきます。
 「楽しみて淫せず、哀しみて傷(やぶ)らず」=歓喜の感情がいかにも楽しげでありながら、節度を保って過度でない。悲哀の感情が流れているが、それも節度を保って過度でない。中国の文化が、常に極端な感情の表出を嫌い、節度ある表現を尊んできたのは、孔子のこの言葉に影響されているのでしょうと、吉川幸次郎先生。今の中国もこうあってほしいです。
 歓喜と悲哀の調和が絶妙というワードに引かれて、現代の日本の歌でいくつか思い出します。北島三郎さんの「風雪ながれ旅」のイントロの津軽三味線が耳に響いてくるようです。2011年の東日本大震災の直後にNHKで「チャリティーコンサート」があり、名だたる歌手がそれぞれのヒット曲を歌って、被災地のみならず全国を勇気づけました。私はそのうちでこの「風雪ながれ旅」が最も心に響きました。紅白歌合戦では、1980年・第31回から以降1981年・第32回、1996年・第47回、2003年・第54回、2005年・第56回、2010年・第61回、2012年・第63回と合計7回も歌われました。特に、2回目の歌唱となった第32回の大トリの紅白ステージでは、途中から猛烈な吹雪を思わせるような、真っ白い紙吹雪が大量に舞い落ちて、歌唱披露する北島さんが見づらくなるほどで、さぶちゃんの鼻の穴にも入ったようでした(笑)。この歌のモデルは津軽三味線の高橋竹山さんだそうです。あるとき、ラジオの「武田鉄矢、今朝の三枚おろし」で、3番を紹介していました。
 「鍋の焦げめし袂で隠し 抜けてきたのか親の眼を 通い妻だと笑った人の 髪の匂いも懐かしい アイヤ アイヤ 留萌、滝川、稚内-」
 この曲は、昭和の歌姫美空ひばりさんも歌っていて、そのうまさはさすがだと思いますが、やはり元祖・さぶちゃんのが理屈を越えて素晴らしいです。CDを買おうかと思いましたが、震災から1年後くらいにNHKのFM放送から録音できました。今やわが家の貴重な財産です。青森から北海道にかけての地名がやたら出てきて、覚えやすいです。

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