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スレッドNo.318

論語でジャーナル’24

 哀公、社を宰我(さいが)に問う。宰我、対(こた)えて曰く、夏后(かこう)氏は松を以てし、殷人(いんひと)は柏(はく)を以てし、周人(しゅうひと)は栗(りつ)を以てす。曰く、民をして戦栗(せんりつ)せしむ。子、これを聞きて曰く、成事(せいじ)は説かず、遂事(すいじ)は諌(いさ)めず、既往は咎めず。

 哀公が(樹木を神体として祭る)社(やしろ)のことを宰我におたずねになった。宰我はお答えした。「夏王朝は松を使い、殷王朝の人は柏(ひのき)を用い、周王朝の人は栗を使っています。栗を用いるのには、国民を戦慄させようという意味がこもっています」。先生はそれを聞いておっしゃった。「すでに終わったことについて論じてはならないし、すでに為してしまったことについて諌めてもいけない。過ぎ去った事柄の責任を追及すべきではない」。

※浩→魯国には、君主や貴族の祖霊を祭る周社と、一般庶民の祖霊を祭る殷社(亳社・はくしゃ)とがあり、社には樹木が神体として置かれ「神木」とされていました。神木の下では民衆の裁判と刑罰が行われたので、周の時代の「栗の木」というのは、神聖な場所を示すと同時に恐怖の場所を示す目印でもありました。孔子の門人であった宰我(さいが)は、周社の威令を掲げて三家老を完全に追放する英断(王政復古のクーデター)を哀公に迫ったという解釈がありますが、孔子は暴力的なクーデターによって王政復古を実現してもその政権は安定しないだろうと考え、宰我の性急な諫言を牽制したとされます。
 「すでに終わったことについて論じてはならないし、すでに為してしまったことについて諌めてもいけない。過ぎ去った事柄の責任を追及すべきではない」。
 「過去と他人は変えられない」「取り返しのつかないことをしたら忘れるしかない。だって、取り返しがつかないんだもの」とよく野田先生から教わりました。某国は儒教が盛んだと聞いていますが、「1000年でも恨み続ける」とか、一度結んだ約束事を平気でチャラにします。儒教の形式だけが伝承されて、精神はないがしろにされているんでしょうか。そうだとすれば、せっかくの孔子の「礼」の教えがないがしろにされていると思えます。現在、NHKで「坂の上の雲」が再放送されています。ずいぶん豪華な作品です。出演俳優さんもセットもロケも。今、日清戦争が始まるところです。描かれていることは事実ではなくて作者の主観によるとしても、とてもリアルです。朝鮮半島の情勢もよくわかります。日本はそこと戦争していないんですね。「物事には二面ある」というのはアドラーの言ですが、恨み辛みだけにこだわるのはこのことを忘れています。ほんとは感謝してもいい部分もあるはずです。

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