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スレッドNo.334

論語でジャーナル’24

 子曰く、唯(ただ)仁者能(よ)く人を好(よみ)し、能く人を悪(にく)む。

 先生が言われた。「仁者だけが、他人を愛し、他人を憎むことができる」。

※浩→人は感情によって他人を愛し憎むのであるが、孔子は、盲目的な好悪の感情を理性によって抑制するのではなく、感情が最も自由に発露すると、自然に節度を超えないと信じ、仁者にそれが可能であると考えたそうです。おや?感情を自由に発露というと、「カタルシス」かな?それだと、アドラー心理学の立場とは相容れないのですが、「節度を超えない」というところに注目します。
 フロイトの説に、「イドあるところにエゴあらしめよ」というのがありますが、これは情動を理性で制御せよと言っているようです。アドラー心理学では、感情は目的のために使用されると考えます。感情はライフスタイル(信念)から出てきます。「競合的」でなくて「協力的」なライフスタイルであれば、陰性感情で人を操作することはないです。でも、ライフスタイルは幼少期から形成されているので、大人になってからの改善はかなり困難でしょう。不可能ではありませんが。
 それよりも、愛も憎しみも「相手に関心があるからこそ」で、まったく「無関心」な相手には愛も憎しみも感じないでしょう。アドラーは感情(情動)を「結びつける感情」と「切り離す感情」と2分しました。相手に接近しようとする場合は「親愛の情」「喜び」とかコンジャンクティブな感情を使い、相手と離れたいときは「憎しみ」「嫌悪」とかディスジャンクティブな感情を使います。人間関係が協力的で個人が成熟したライフスタイルであれば、まず陰性感情を使う必要はないでしょう。「怒り」や「イライラ」や「憎しみ」で、人をどうこうしようとする必要はありませんから。「為政篇」にあった「七十にして心の欲するところにしたがいて矩(のり)を踰(こ)えず」という境地でしょうか。

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