論語でジャーナル’24
子曰く、参(しん)よ、吾が道は一(いつ)もってこれを貫く。曽子(そうじ)曰く、唯(い)。子出(い)ず。門人問いて曰く、何の謂(いい)ぞや。曽子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。
先生が曽子を呼んで言われた。「参よ、自分の道は一本を通してきたのだぞ」と。曽子が答えた。「わかりました」。先生が席を立たれたあとで、門人がたずねた。「大先生のおっしゃったのはどういう意味ですか?」曽先生が言われた。「大先生の道は忠恕。つまり真心と思いやりとにほかならない」。
※浩→孔子は、弟子たちの質問に対して、その性格、才能などに応じ、その長所を伸ばし、短所を正すように、それぞれ違う答えをしています。野田俊作先生もそうでした。孔子が最高の理想としていた「仁」や「礼」についての説明はまちまちで、統一されていません。共同体感覚の概念も同じかもしれません。孔子が「仁」や「礼」について多様な説明をしていても、確固とした理想があり、その考えは一つに統一されていて、これを、「一もってこれを貫く」と述べたのです。「忠」は自己の両親に忠実なことですが、それだけでは他人には通用しにくい。そこで、他人の身になって考える「思いやり」が必要である。それが「恕」です。この「忠」と「恕」が結合して一体となっているのが「仁」です。
私は、在職中に「現代社会」や「倫理」の授業で、ここを暗唱文に指定していました。わりと短くてしかも「仁」の意味がよくわかるからです。当時の生徒諸君の多くは、ほとんど意味を解さずに、ただ音声として反復記憶していたようですが、とても熱心に取り組みました。ありがたいことに、一部の元・生徒君から、このことがのちに役立ったという報告をいただきました。
上の解説にあったように、「忠」(真心)のほうは外から見えないので、他人が「忠」か「不忠」かはわかりません。どうやったらわかるでしょうか?それはその人の行い(行動)を見ればわかります。つまり、その人の行為に他者に対する“思いやり”が見えるかどうかです。今の世の中、この“思いやり”が欠如しています。反対にすぐキレる人や、“逆ギレ”する人が多いです。わが家の向かいにアパートがあって、そこの住人でしょうか、ときどき前の道に煙草の吸い殻を捨てています。紅がついているのでたぶん女性でしょう。放っておくと何日もそのままです。ご近所のどなたも拾わないので、結局私が拾って始末します。常にきれいにしておくと、捨てにくくなるはずですが、何日かあとにはまた捨ててあります。カミュの「シーシポスの神話」みたいです。でも愚痴を言っても仕方ないので、見つけたら拾って始末しています。家の前の道がきれいですと、自分の心もきれいになったような気がしますから、これも結局は私利私欲のためです。それでも南隣の奥様はとても綺麗好きで、毎日欠かさずおうちの前の道を清掃されます。この方をお手本にさせていただいています。