論語でジャーナル’24
子曰く、父母いますときは遠く遊ばず、遊ぶに必ず方あるべし。
先生が言われた。「父母在世の間は、遠い旅行をしない。旅行をしても、きっと一定の方角にだけ行き、別の方角へ勝手に行かない」。
※浩→上の解釈は「新注」によります。「古注」では、「方は常なり」で、「規律ある旅行をする」とか「決まった連絡先がある」と解釈されます。吉川幸次郎先生は、両説併記で、貝塚茂樹先生は、古注採用です。
『礼記(らいき)』に「およそ人の子たるものは、出づるときには必ず告げ、帰れば必ず面(め)どおりす。遊ぶところ必ず常あり、習うところ必ず業あり」とあるのと似ています。
私に関しては、就職して1年で父は他界し、親は母一人。しかもその母は人一倍の心配性で、この孔子の教えどおり実行するよう私に求めていました。仕事に出るときは、「帰りは何時?」と、出張や旅行では、「帰りはいつ・何時?」と必ず聞かれました。その日にちや時間を過ぎるときは、必ず電話で連絡を入れるようにと、それはそれは厳重でした。だいたいは守っていましたが、飲み会のときなどは、ときどきタイミングを失して予定時間を過ぎても連絡しないことがありました。そんなときはかなり苦情を言われました。大学時代は下宿生活で別居でしたから気楽でした。ボート部は年中ほとんど合宿で、年に数回、県外へ遠征に行っていました。中国五県内か、琵琶湖か、あるいは埼玉県戸田とか行きましたが、いつどこへ行き、いついつごろ帰るか、まったく連絡の必要はありませんでした。父が逝って母が同居するようになってから、この厳格な「帰宅縛り」が始まりました。自称“親孝行”の私は、それでもきちんと母の言いつけを守ったほうだと思います。最初の赴任地・井原市と続く高梁市(総社市在住)では、そんなに遠出することはなくて、たまに女子バレーボール部員や卓球部員を引率して、岡山市や津山市へ出張するくらいで、もっとまれには静岡県に就職した親友・行司伸吾君のところへ遊びに行くくらいでした。備前高校時代のボート部監督時代には、青森国体と佐賀国体が最も遠距離でしたが、これも問題なし。母もまだ若くて、心配性がそれほどひどくなかったのでしょう。岡山工業高校に勤めるようになって西大寺に住んだころから「帰宅縛り」が厳しくなりました。毎月開催のアドラー心理学の講座のあとは、「懇親会」があり、よく帰宅が深夜になりました。二次会なんかあると、あらかじめ伝えていた時刻を過ぎることがたびたびでした。余裕があれば会の途中で電話を入れるのですが、何しろお酒が入っているし、お仲間との楽しいおしゃべりが弾んていて、電話する暇のないことがありました。“午前様”で帰宅すると、当然、母はすでに寝ています。家は真っ暗です。自分用の鍵でそっと玄関を開けて入り、母を起こさないように気をつけますが、微かな物音で母は目が覚めて、いくらか苦情を言っていました。そんなとき素直に謝ればいいものを、何だかんだと言い訳をしていました。極楽浄土のお母さん、ごめんなさい。親不孝の報いがやってきましたが、観念して粛々と対処しました。