論語でジャーナル’25
20,季文子、三たび思いて而る後に行う。子、これを聞きて曰く、再び思えば斯(すなわ)ち可なり。
季文子(きぶんし)は三度考えてから実行した。先生がこれを聞いて言われた。「二度考えてみて結論がえ出れば、それで良いのである」。
※浩→季文子は孔子の前時代の魯国の宰相ですが、晋国への使者の役目を仰せつけられて、出発するまでに三度考えて、晋の礼制を万全に理解してから出発したと言われます。孔子はこれを聞いて、三度まで考え直して決断するほど慎重であるべきではなく、二度しっかりと考え直して結論が出ればそれに従えばよいと批評しました。
これは朱子の解釈のようですが、古注では、「季文子ほどの賢者ならば二度でよい」と、「賢者」という前提があって、このほうが穏やかに聞こえます。「三国志」の“三顧の礼”もありますし、三度確認するというのは、それほどやりすぎとも思えません。現代、横断歩道を渡るとき、「右見て左見てもう一度右を見てそれから渡りましょう」と子どもたちに注意しています。鍵をかけたあとちゃんとかかったかどうかを、普通は1回ドアを引っぱって確認しますか。これを何度もやると神経症です。私自身はかなり神経質ですから、季文子なみの慎重さも納得できます。あまりの慎重さに嫌気がしてやめると、今度は文章を書いたあとのチェックなどがいい加減になってあとで誤字が見つかることがしばしば起こるようになりました。まあ、見つけた人が知らせてくれますから、それに頼るのも可なりです。ライフスタイルが少しだけ変化したのでしょう。感覚型では「聴覚型」ですから、とにかく耳に入る音にとても敏感です。野田先生が、「視覚的なものは眼を閉じさえすれば見えないが、音は耳をふさいでも聞こえる」とおっしゃっていました。なるほど、昔住んでいた借家のそばに国道とバイパスを結ぶ短絡路になっている市道があり、深夜も大型トラックが往来して、私の安眠を妨げていました。その後、バイパスが貫通してトラックが通らなくなって安眠できるようになりました。音には敏感な反面、見るほうはいい加減なことが多く、見たものの記憶もあやしいです。これは気をつけないと危ないです。ときどきハッとすることがあります。視覚・聴覚・触覚をバランスよく使っていきたいです。
「学而篇」の曽子の言を思い出します。
曽子曰わく、吾、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝うるか。