論語でジャーナル’25
22,子、陳に在りて曰く、帰らんか、帰らんか。吾が党の小子、狂簡(きょうかん)にして、斐然(ひぜん)として章を成す。これを裁する所以(ゆえん)を知らざるなり。
先生は陳の国で言われた。「帰ろうよ、帰ろうよ。わがふるさとの塾(教団)の若者たちは志ばかりが大きく、瞳には美しい模様を織りなしているが、どのように裁断したらよいかわからないでいるのだから」。
※浩→「党」は五百家の集団で、党には青年の宿泊所がありました。日本の“若者(若衆)宿”のようです。ここで何日か共同で宿泊して、老人から集落の故事などの教育を受けました。そしてこの老人を正座に据えて、酒盛りをしました。これはプラトンの『饗宴』を思わせます。小子はここの青年の身分で、これが孔子の弟子たちの呼称になりました。「わが党の小子」は孔子が曲阜の近郊に持っていた教団に残してきた年少の弟子を指します。「狂簡(きょうかん)」は狂狷(きょうけん)と同じ。「狂」は志(こころざし)が非常に大きく威勢が盛んなこと、「簡」は気質に大きな偏りがあり起伏に乏しいことです。「斐然(ひぜん)として章をなす」は、色彩が豊かで美しい模様を描いていることです。
孔子が故国・魯の政治改革に失敗して亡命して小国・陳にいるときに語った言葉で、故郷を懐かしく思い出して望郷の念に駆られるとともに、自分の村の教団に残してきた若い生徒たちの行く末と教育を心配しました。彼らは元気盛んで華々しく文化活動をするが、元気が盛んなだけに、どう決まりをつけたらよいかわからず迷っているだろうから、私が帰って、彼らに方針を与え指導しようと言っています。これがのちに彼の教えが世に広まるきっかけ・転機になったと言われます。
師が弟子の行く末を案じて、元気なうちに可能な限り彼らを教え導いておこうと決心する、その熱情がひしひしと伝わってきます。わが偉大なる指導者・故野田俊作先生も孔子と同じように、いやそれ以上かもしれませんが、あとに残すわれわれ生徒・弟子を案じてくださったに違いないでしょう。私には無尽蔵の資源を残していただきました。自力ではとうてい理解できないものも含まれていますが、少しずつ切り崩しては咀嚼しながら、次の時代に伝承していくつもりです。現在、岡山工業高校で毎月行なっています。今月は本日です。この寒波を跳ね返して熱く語るつもりです。