論語でジャーナル’25
28,子曰く、十室の邑(ゆう)、必ず忠信、丘(きゅう)の如き者あらん。丘の学を好むに如(し)かざるなり。
先生が言われた。「10戸しかない村里にも、目上の者に忠実で、約束を裏切らない忠信において、丘(私=孔子)と同じくらいの者はいるだろう。ただ、丘の「学問を好む」ということに及ばないだけだ」。
※浩→孔子が、10軒ほどしか家のない小さな村落であっても、自分と同じくらいに君主や礼に忠実で、一度交わした約束を破らない「忠信」の人材はいるに違いない、と謙遜の言葉を述べています。その一方で、自分ほどに向学心と知的好奇心を持った人物は、そうそういるものではないという「矜持(きょうじ)」を語っています。
他者への謙遜の言葉を述べながら、自分ほど向学心&知的好奇心を持つ者はそんなにいないだろう、と「矜恃」を語り、矛盾しているようにも感じられますが、吉川幸次郎先生はこの部分を甚だしく好まれていて、次のように解説されます。
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孔子によれば、素朴なひたむきな誠実、それだけでは完全な人間でないのである。学問をすることによって、人間ははじめて人間である。人間の任務は、「仁」すなわち愛情の拡充にある。また人間はみなその可能性を持っている(浩→共同体感覚みたいです。)。しかしそれは学問の鍛錬によってこそ完成される。愛情は盲目であってはならない。人間は愛情の動物であり、その拡充が人間の使命であり、また法則であるということを、確かに把握するためには、まず人間の事実について、多くを知らなければならない。
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この解説を読みながら、アドラー心理学門人である私には、「共同体感覚」について解説しているように思えてなりません。共同体感覚は人間に「生得的な可能性であるが、育児・教育によって積極的に育てないといけない」と言われています。こういう点でも、アドラー心理学と孔子の思想は相性がいいのでしょう。
「公冶長篇」はここで終わります。この篇では、いろいろと古今の人物を評論していましたが、他人に対する批評は、自己への反省のためであることを示していて、さらには、真に学ぶ者にしてはじめて、自分の過ちを発見しうることを暗示しているそうです。この謙虚さ・誠実さに心が洗われる思いがします。(「公冶長篇」完)