MENU
43,670

スレッドNo.476

論語でジャーナル’25

12,冉求(ぜんきゅう)曰く、子(し)の道を説(よろこ)ばざるには非(あら)ず。力足らざるなり。子曰く、力足らざる者は中道にして廃(や)む、今汝は画(かぎ)れり。

 冉求が言った。「先生の道徳の道が好きでない(嬉しく思わない)のではありません。私の力が足りないだけです」。先生がおっしゃった。「力が足りない者は途中で投げ出すものだが、今のお前は、初めから自分自身の力を制限しているだけだ」。

※浩→弟子の冉求が「先生の教えられる道徳の学説は素晴らしいものだが、私には実力がないのでそれを実践できない」と嘆いたところ、孔子はあっさりと「それは実力が不足しているのではなく、自分で自分の力に限界を見出しているに過ぎない」と指摘しました。「実力不足」というと客観的な評価のようで、「自分で自分の力に限界を見いだしている」というと、主観的判断のようです。つまり“自縄自縛”しているのに、それを客観的な実力不足を口実に言い訳をしていると解釈すると、アドラー心理学ふうです。まさに「自己欺瞞」「劣等コンプレックス」です。生涯を通して実践と決断の人であった孔子は、「自分の力を信じて行動する重要性」を冉求に説きました。現代の私たちにもとても有意義な言葉です。
 私がかつて講演に行った近所の幼稚園で、園長さんが「幼児・児童はできないことでも“できる”と言うのに、中学生になるとできることでも“できない”と言いますね」とおっしゃっていたことを思い出しました。中学生が“できない”と言うのは、劣等コンプレックスです。理想と現実(実力)の差が大きすぎて勇気をくじかれていると、初めから取り組む気がしないのです。幼児・児童はまだそれほど勇気がくじかれていなくて、劣等コンプレックスを使う必要がないのか、あるいは課題の困難さを認識していないのでしょうか。そういえば、小学校では先生が質問すると、ほとんどの児童たちが「はい」「はい」と手を挙げて、自分を指名してほしがります。中学・高校では、ほぼ全員下を向いて、「どうか自分が指されないように」と願っているようです。野田先生の講演「怠惰な子ども」では、「怠惰な子どもは勇気をくじかれた野心家」とあります。理想達成のためのアクションを起こして達成できれば喜ばしいですが、もし達成できないとどうなるかを考えて、失敗を恐れているのだとすれば、その人は、失敗を容認できない完全主義の人なのでしょう。孔子には、「勇気づけ」という概念はなかったかもしれませんが、冉求に、「お前は初めから自分の力を制限している」と厳しい意見を述べてはいます。でもどうすればそれをクリアできるかは述べていないです。別の個所で勇気づけているのかもしれないです。劣等コンプレックスを解消するには、理想を下げるか現状を上げるかして、差を縮めればいいのですが。

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

ロケットBBS

Page Top