論語でジャーナル’25
13,子、子夏に謂(い)いて曰く、女(なんじ)、君子の儒となれ、小人の儒となるなかれ。
先生が子夏におっしゃった。「お前は君子のような器量と礼節のある学者になりなさい。小人のような偏狭で落ち着きのない学者になってはいけない」。
※浩→ここでは子夏に対して孔子が理想とする儒学者の姿が述べられています。「儒」の意味は、古くは「儒は優なり柔なり」と言われていました。古いゆったりした衣服を着て、みやびやかに礼儀作法を習っていた孔子の一門に対して、他の学派が「儒者」と呼んだことから、孔子の学派を「儒学」「儒教」と呼ぶようになったそうです。孔子は、有徳の士大夫(君子)となるための教育に心血を注ぎ、貴族的な鷹揚さと礼儀作法を身に付けた儒者になることを弟子に勧めていました。枝葉末節に過度にこだわる小人の学者を非難し、「大局を見通すビジョンを見た学者(為政者)」であることが求められました。子夏は文学には長じていましたが、行儀作法の枝葉末節にばかり精を出していたことを非難しています。
大局を見るということは、特に指導的な立場に立つ人には必須です。テレビで国会中継を見ますが、多くの議員や大臣の発言が枝葉末節にこだわりすぎていたり、過去の事件や過去の首相が関係するトラブルにしつこくこだわり続けている様子を見るにつけ、「この国はほんとに大丈夫なんだろうか?」と疑わしくなります。チコちゃんに「ボーッと生きてんじゃないよー!」っと、叱ってもらわないといけません。
昔、ある高校の校長先生が、文化祭の打ち合わせで次々に大まかなプランが決定していく中で、「当日は食堂でのうどんの注文数が変化するからその対策をきちんとしておくように」とおっしゃったそうです。校長の言葉とも思えない。こんなのを「ケツの穴が小さい」と言うんですね。古き良き時代の校長さんの中には、「責任は私が取る。しっかりやってください」と部下を激励したそうです。私の在職中にもいらっしゃいました。備前高校時代のN校長さんとか、岡山工業のW校長さんを思い出します。