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スレッドNo.490

論語でジャーナル’25

19,子曰く、人の生くるや直し、これ罔(な)くして生くるや幸いにして免る。

 人間は生きていく、まっすぐに。曲げて生きていくと、偶然に助かっているだけだ。

※浩→古注では、人間が生命をまっとうすることができるのは正直の徳による。正直によらず、自他を欺いて生きながらえることもできるが、それはまぐれあたりで助かっているだけだ、と読みます。新注では、人間の本性は正直ですから、これに従って生きていけばそれでよい、と解釈します。邪念が起こっても、それを曲げると、かえって百害が生じる。生命の直接で純粋な体験を通じて語っている新注を、吉川先生も貝塚先生も採用されました。
 「まっすぐ=直」からの連想です。はるか昔、高校2年生のクラスに渡辺直(なおし)君という級友がいました。私たちは「ちょくさん」とアダナで呼んでいました。「直」と命名した親御さんは論語のこの一節をヒントにされたかどうかわかりませんが、彼はクラスの男子の中で身長が一番高いグループにいて、心もほんとにまっすぐだったと思います。私は中学2年生のとき身長がぐっと伸びましたが、高校1年生ではまだ真ん中より少し高い程度だったと思います。それが2年生になってまた伸びて、体育の時間などで高い順に並ぶと、直さんたちのいる最前列の一員になりました。不思議なことに、こういうことで友人関係が変化します。それまでは、中学時代からの親友・岡村鉄夫君(彼は背はあまり高くない)と常に一緒で、クラスは違っても、休憩時間ごとに会うほど親しかったです。部活動も同じ演劇部で、下校も一緒にしていました。彼は実家が九州(福岡県)のため下宿していて、しょっちゅうお泊まりに行って一緒に勉強していました。裕福なおうちの息子さんで、豪華な暮らしをしていました。参考書や問題集などが本棚に溢れていました。衣類も私は親戚などからもらったお古を直して着ていたのに対して、彼はいつも新しいおしゃれなものを着ていました。しかもハンサムでした。(今は廃校になりましたが)丸の内中学校で同じクラスになって、母親どうしが保護者会で知り合いになり、仲良しになっていました。成績は私は学年で常に2~3番を維持していました。2年生で身長が伸びてからは、最も親しくなったのが渡辺直君です。もちろん岡村君と疎遠にはなりませんでしたが、1959年3月の修学旅行では、岡村君とでなく、クラスも班も一緒の「ちょくさん」と四六時中、一緒に過ごしていました。バスに乗っても隣の席。宿も同じ部屋でした。コースは、まず国鉄(今のJR)で福岡市へ直行して一泊。宿は板付空港(福岡空港)の近くで、離着陸する飛行機の音がしょっちゅう聞こえました(おー、やっぱり聴覚型だ)。翌日は、久大本線で阿蘇へ寄り、草千里から中岳火口をめぐり、別府に落ち着いて一泊。ちょくさんとは当然お風呂も一緒に入っていました。フロイト心理学で、この時期を“同性愛期”というのがよくわかります。ほんとに四六時中くっついていましたから。翌日は、日豊本線で宮崎へ。この旅行での一番人気の場所が宮崎でした。バスガイドさんがモテモテで、目玉の青島や子どもの国などの魅力よりも、わがクラス一同は、ガイドさんにくっついて離れませんでした。記念写真に入ってもらうのに順番待ちをしたくらいです。このガイドさんから車中で教わった宮崎民謡「いもがらぼくと」は今でもはっきり覚えています。
 ガイドさんが歌ったのは1番と2番だっと思います。あとはネットから引用しました。
腰の痛さよ 山畑開き
春の霞の 日の長さ
焼酎(しょうちゅ)五合の 寝酒の酌に
おれも嫁女が ほしゅなった ヤレ
も今年ろたもろたよ いもがらぼくと
日向かぼちゃの よか嫁女
ジャガジャガマコッチ エレコッチャ

鞍に菜の花 ヒャラヒャラヒャット
七つ浦から 赤毛布(あかげっと)
かわい嫁女は、シャンシャン馬よ
今年ゃ田植えも 二人ずれ ヤレ
もろたもろたよ いもがらぼくと
日向かぼちゃの よか嫁女
ジャガジャガマコッチ エレコッチャ

種子は万倍 とり入れ日和
まこち目出度や出来秋の
飲みにござれや祝いの酒を
婢(かか)も珍らしゅ長着物(ながぎもん) ヤレ
貰ろた もろたよ いもがらぼくと
日向カボチャのよか嫁女(よめじょ)
ジャガ ジャガ マコチ エレコッチャ

ヤイヤ 霧島大雪ぢゃがい
大根(だいこ)千切 手が痛や
俺も来年(でねん)はすぐ人の親
きつや辛やと言うちゃおれん ヤレ
貰ろた もろたよ いもがらぼくと
日向カボチャのよか嫁女(よめじょ)
ジャガ ジャガ マコチ エレコッチャ

 宮崎では「埴輪」の人形がとてもかわいくて、お土産に買いました。これは今もわが家の人形ケースに収まっています。宮崎の街は大通りが印象的でした。フェニックスの街路樹が南国風情を醸し出していました。ラストは鹿児島です。城山、磯公園、桜島と見学して、その夜、夜行列車で一路岡山へ向かいました。
 鹿児島のバスガイドさんは、「鹿児島おはら節」を教えてくれました。あまりにも有名な歌ですが、この歌の中の「おごじょこらこら 手拭いが落ちた 持たぬ手拭いが オハラハー なぜ落ちる ア、ヨイヨイショイサット」だけ覚えています。
 ちょくさんとは、3年生では別のクラスになり、さらに受験地獄にも突入したため、いつの間にか離れてしまい、また岡村君とくっつきました。私は岡山大学へ、岡村君は広島大学へ進学しました。これで岡村君ともお別れです。身長が伸びたことの影響としては、岡山大学でボート部へ引っ張り込まれたことが追加されます。

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