論語でジャーナル’25
23,子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。仁者は寿し(いのちながし)。
先生がおっしゃった。「知者は流動的な水を楽しみ、仁者は不動の山を楽しむ。知者は人生の一瞬一瞬の変化を楽しみ、仁者はゆったりと長生きする」。
※浩→有名な一条です。「世界の名著」の貝塚茂樹先生の解説では、「孔子は、まず知者と仁者との差異を、水と山という風景に対する趣味の違いに見出す。そしてそれから出発して、活動し続ける知者と、どっしりと構える仁者の社会人としての行動の型を取り出す。最後に人生の生き方に移って、日々に楽しい知者の生活ぶりと、目立たないが健康で長寿を遂げる仁者の落ち着いた心境とを対比させる。静謐な幸福を享受するのが仁者なのであるというこの言葉によって、孔子は人生の真の幸福は何かという問題に答えている。たぶん孔子の最晩年の思想を述べたものであろう」と。
流れる「水」と、不動の「山」の対比で、「動」と「静」を対比させています。
学校などでの管理職と職員を対比してみると、職員は分掌の役割を果たすべく、機敏に動き回るかもしれませんが、管理職はどっと構えて全体を統率すると、組織全体がうまく機能するでしょう。その管理職が現場の動きに一々動揺したり、動き回って介入していると、組織は混乱するでしょう。大昔の話ですが、ある高校の職員会議で文化祭の企画をしているとき、校長が「当日はバザーを利用する人が多いから、食堂のうどんの数を減らさないといけない。うどん屋さんへ連絡しないといけない」と指示を出して、職員があきれていたそうです。わが国では、福島の原発事故のとき、総理大臣が真っ先に現地へ飛んでいったことがありました。野田先生が「あんたが動くなよ!中央にいて、あちこちに指示を出せよ」が激怒されました。「為政篇」にあるとおりです。「政を為すに徳をもってすれば、譬(たと)えば北辰のそのところにいて衆星のこれをめぐるがごとし」です。最上位のリーダーはじっとしていろよ!
また話が飛躍しますが、アウシュビッツを体験したヴィクトール・フランクルは、「3つの価値」を挙げていました。人間が実現できる価値は創造価値、体験価値、態度価値の3つに分類され、創造価値とは、人間が行動したり何かを作ったりすることで実現される価値で、仕事をしたり、芸術作品を創作したりすることがこれに当たる。体験価値とは、人間が何かを体験することで実現される価値である。芸術を鑑賞したり、自然の美しさを体験したり、あるいは人を愛したりすることでこの価値は実現される。態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。病や貧困やその他さまざまな苦痛の前で活動の自由(創造価値)を奪われ、楽しみ(体験価値)が奪われたとしても、その運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されている。
フランクルは、アウシュビッツという極限の状況の中にあっても、人間らしい尊厳のある態度を取り続けた人を実際に見ました。フランクルは人間が最後まで実現しうる価値として態度価値を重視します。フランクルの著作は、『夜と霧』があまりにも有名ですが、この本は読むとこわいので夜中のトイレに行けなくなると、野田先生がおっしゃっていました。わが家の本棚にもありますが、私もこわいから全部は読めません。同じフランクルの『それでも人生にイエスと言う』はあまりこわくなくて、これは完読できました。ニーチェの「永劫回帰」を連想しました。
自分のこれまでとこれからの人生では、在職中は主に「創造価値」を生きていて、退職前後はまだエネルギッシュで、贔屓の役者・三代目・市川猿之助のお芝居を観るためには、東京でも名古屋でも京都でも大阪でも福岡でも馳せ参じていました。退職後10年、15年、20年と経過して、加齢が進み、行動範囲はぐんと縮小しました。2013年に新装開場した歌舞伎座にはまだ行っていません。アドラー心理学会の総会は、2019年の千葉・幕張までは直接参加しましたが、翌20年はコロナの感染爆発で高松総会が中止。21年にオンラインで開催されました。22年の名古屋、23年の広島、24年の盛岡とオンライン参加が続いています。コロナ直前までは、北九州、名古屋、新潟、大津、能登・羽咋と、結構移動しています。「体験価値」たっぷりです。今後身体能力がますます衰えてくると、いよいよ「態度価値」の出番です。プロダクティブなことはあまりできなくなりますから、動いていろいろな体験するのでなく、どっしり構えた自分の存在そのものが、まわりの人たちをささやかでも勇気づけられるような、そんな生き方ができれば最高です。