論語でジャーナル’25
29,子曰く、中庸の徳たる、それ至れるかな、民鮮(すく)なきこと久し。
先生が言われた。「中庸という徳は、なんと完全無欠なものだろう。それにつけて、人民にその徳が欠けるようになってから、なんと久しくなったことだろう」。
※浩→中庸は「過不及がないこと」、庸は「平常」という意味。「世界の名著」ではこれだけの解説ですませていて、素っ気ないですから、吉川幸次郎先生の詳しい解説を参照します。
『中庸』は、孔子の孫である子思の作として、漢代には『礼記』の一篇となりました。宋以後は「四書」の一つとして極度の尊重を受けました。
「中庸」の『中』とは、偏らないことではありますが、決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではありません。「中間」、「平均値」、「足して2で割る」というものではなくて、常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものです。
『庸』は「常」であって偏頗(へんぱ)でないもの、奇僻(きへき)でないもののことです。「事理の当(まさ)に然るべき」ところのものです。
実際、『中庸』の冒頭には次のようにあります。
中なるものは不偏不倚(ふへんふい)、過不及なきの名。庸は平常なり。
この「中庸の徳」を常に発揮することは、聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなくて、誰にでも発揮することができるものだと考えられます。それなのに、その能力を持つ人間が乏しくなってから、ずいぶん時間を経たと孔子は嘆きます。孔子の時代ですらそうだったのですから、昨今の「礼の欠如ぶり」のひどさは当然と言えば当然だと言えるようです。
関連して、西洋ではアリストテレスが「徳」を「知性的徳」と「倫理的(習性的)徳」に分けて、「知性的徳」の「知恵」と「思慮」のうちの「思慮」がその指導原理「中庸」に従って行動するとき「倫理的徳」が実現すると解いています。詳しくは『ニコマコス倫理学』などにあります。お釈迦様なら「四諦八正道」です。四諦は「4つの真理」で、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦、道諦。人生は「苦」、それは煩悩のなせる業(「集」)、煩悩を滅すれば苦は消滅(「滅」)、その道は八つ(「道」)。八つの道=八正道とはすなわち「中道」です。すなわち、正見(しょうけん)、正思(しょうし)、正語(しょうご)、正業(しょうごう)、正命(しょうみょう)、正精進(しょうしょうじん)、正念(しょうねん)、正定(しょじょう)です。これは野田先生の解説にしょっちゅう登場しています。
私は、常々、日本から「礼(マナー)が消えて久しい」と嘆いています。まあ、自分のことは棚に上げてはいますが。特に孟子の四端の心のうちの「辞譲の心」がほとんど忘れれているように思います。とにかく譲り合わなくてしかも競合的です。それでも「辞譲」の徳が全滅ではないようです。ほんとに稀に、こちらの「礼」にきちんと応じてくれる人に出会います。その日はそれだけでしあわせを感じます。世の中、まだまだ捨てたもんじゃないと、そのときは少し安心します。ペットボトルと携帯電話の普及で、公衆マナーは消滅しました。備前市に「閑谷学校」という儒学の殿堂があります。そこで催される「論語の読誦」が、単なるイベントに終わることなく、その精神が日常生活で実践されることを願ってやみません。及ばずながら私も「学而篇」の、「曾子曰く、吾、日に三たび吾が身を省みる。人の為に謀(はか)りて忠ならざるか。朋友と交わりて信ならざるか。習わざるを伝ふるか」を日々実践するように心がけています。