論語でジャーナル’25
11,子曰く、賢なるかな回や、一箪(いったん)の食(し)、一瓢(いっぴょう)の飲(いん)、陋巷(ろうこう)に在り。人はその憂いに堪えず、回はその楽しみを改めず。賢なるかな回や。
先生が言われた。「顔回は何と賢明な人物であろうか。竹作りの弁当箱一杯の食事と瓢(ひさご)の水筒一杯の水で、寂れた路地の奥に住んでいる。普通の人はその憂鬱に耐えられないだろうが、顔回は質素な生活の楽しみを忘れることがない。回は、何と立派な人物であろうか。
※浩→最愛の弟子であった顔回の質素な生活と有徳なふるまいを絶賛しています。顔回は、一般の人だと退屈や憂鬱に押しつぶされてしまうであろうような状況でも、学問と徳行の日々を十分に楽しむことができて、顔回ほどに賢明で清廉な人物はそうそういるものではないと、ここまで師に愛される顔回はどんなに魅力的な(知性と徳性においてでしょうが)人物だったのでしょうか?素晴らしかったに違いありません。
吉川幸次郎先生の解説では「賢」を「かしこい」と訳さないで「えらい」という褒め言葉に訳されていましたが、アドラー心理学では「褒めるのは勇気くじき」となりますが、時代も場所も違いますから、そんなに細かいことにはこだわらないで、「美しい師弟関係」として素直に憧れます。
私は恩師・野田先生から受けたご恩を「倍返し」で、現在ともに学ぶ人々に自分がいただいた財産を彼らにしっかりと伝授し続けていきます。