論語でジャーナル’25
21,子曰く、中人(ちゅうじん)より以上には、もって上(かみ)を語るべく、中人より以下には、もって上を語るべからず。
先生が言われた。「平均か、それ以上の知能の持ち主には、高度な内容の話をしてもよい。平均以下の知能の持ち主には、高度な内容の話をしても無駄である」。
※浩→何をもって知能の高さを測るか不明ですが、何しろ紀元前5世紀のお話です。孔子は、人間の能力を三分して考えています。「上知(じょうち)」と「下愚(げぐ)」と、ここで言われている「中人」です。差別的に見えますが、当時、「上知」と「下愚」はそれほど多くなくて、「中人」つまり平均人が社会の大多数を占めていたはずです。その平均人には高度な話をして教育できると考えていましたから、現代の教育の機会均等の考えと矛盾しないのだと、「世界の名著」の貝塚茂樹先生の解説にありました。
「上知と下愚」は、ずっとあとの『陽貨篇』に、「子曰く、ただ上知と下愚とは移らず」とあります。万人の生まれつきの素質はそんなに差がないが、生まれたあとの習慣つまり学習によって差がつく。ただし上知と下愚は、学習によっても変化しない。
相手に応じた教育をするということなら現代に通じます。アドラー心理学もそうです。例えば、子どもが問題を起こして相談に見えた親御さんに、いきなり「アドラー心理学の基本前提はね…」と理論を説いたりしません。ひたすら「勇気づけ」ながら、親子コミュニケーションに起こっていることを理解してもらい、悪循環のループを切って、子どもの適切な面に注目してあげるように提案していきます。さらに、継続的に学びたい親には、親教育ワークセミナーである「PASSAGE」への参加を勧めます。アドラー心理学で救われた体験をした人の中から、さらに他の人の助けになりたい人が出てくると、そういう人は、例えば「PASSAGE」のリーダーになったり、さらにはアドラー心理学のカウンセラーを目ざしたりします。このレベルになると、かなり高度の理論を学びます。この領域もクリアすると、今度はスピリチュアルな領域へ入っていくのでしょう。
「上知と下愚とは移らず」に関連した諺もいくつかあります。「釈迦に説法」は前者で、「馬の耳に念仏」は後者でしょうか。私自身はたぶん「下愚」ではないかと思います。自分にはとうてい及ばない領域をたくさん残した状態で生きているからです。「無知の知」を自覚してはいます。歌舞伎の十七世・中村勘三郎さんの残した言葉に、「まだ足りぬ、踊り踊りてあの世まで」というのがありました。私の場合は「まだ足りぬ。学び学びてあの世まで」です。“完全”は求めません。ドライカースふうに「不完全を受け入れる勇気」を持って生きていきますが、「どうせ人生は間に合わないのだから」と野田先生が日記に書かれていました。