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スレッドNo.76

老子でジャーナル

老子第7章
 天は長く地は久し。天地の能(よ)く長く且(か)つ久しき所以(ゆえん)の者は、その自ら生ぜざるをもって、故に能く長生す。ここをもって聖人は、その身を後にして而も身は先んじ、その身を外にして而も身は存す。その無私なるをもってに非(あら)ずや。故に能くその私(わたくし)を成す。

 天は永遠であり、地は悠久である。天地がそのように永遠・悠久であるのは、己れが生成者であるなどと意識せず無欲無心であるからだ。だから「道」の体得者である聖人は、おのれを後回しにして他人を優先させながら、結局は他人に推されておのれが優先され、おのれを無視して他人を立てながら、結局は他人に重んじられてわが身が立つことになる。それというのも聖人が、おのれの小さな自我を否定して、まったく無欲無心となるからである。だからこそ、大いなる自我を成就できるのだ。

※浩→わが国では天皇陛下・皇后陛下のお誕生日を「天長節」・「地久節」と呼んでいました。明治生まれの母はこの言葉を使っていました。子どもの私は「天長節」の意味はわからなくて、「地久節」は「地球説」だと思い込んでいました。子ども時代の思い込みは強くて、違いに気づいたのはずっとあと、高校生になったころだったと思います。
 有名な白楽天の『長恨歌』にも「天長地久、時有りてか尽きんも、この恨みは綿々として尽くるの期(とき)なし」というフレーズが人口に膾炙(かいしゃ)しています。日本の怪談では、非業の死を遂げた人が恨みの決まり文句に「魂魄この度にとどまりて、恨みはらさでおくべきかー!」というのがあります。歌舞伎ではここで声がかかります。声をかけるタイミングは決まっていて、役者は「恨みはらさで」でちょっと間を置きます、そのとき「きのくにやー!」と声がかかると、続いて「おくべきかー!」と見栄を切ります。
 孟子の「四端の心」のひとつ「辞譲の心」は「礼」のはじまりであると説かれています。老子が、自分をあとにするのは、そうすることで結局自分が先になると、逆説を言っています。わが身を後にするのも、わが身を外にするのも、私心を棄てるのも、結局は、わが身が優先され、立てられるからですから、老獪(ろうかい)さ・下心が感じられます。しかしながら、それを老獪だと批判するよりも、むしろ老子の、世界に対処する仕方の粘り強さ、自己貫徹の意志のしぶとさ・強靱さに注目すべきであろうと、福永光司先生は解説されます。
 単純明快に理非曲直を割り切る立場からは陰険で老獪でしょうが、無理をしない人生、崩れない自己の確立を至上とする立場からは、自然で素直でさえあり、直接的な自我の実現ではなく、曲線的な自己の貫徹で、能動の剛毅さを尊ぶがむしゃらな処世ではなく、受動の強靱さを重んじる弾力性に富む処世であることになります。「老」というのは、よく練られている、青臭さが抜け落ちている、人生の風雪に耐え抜いて円熟しているという意味だそうですが、それは年少者の気鋭と直情径行から見ると優柔不断に見えて、卑屈・老獪に見えるでしょう。でも、その卑屈・老獪さは単に卑屈・老獪なのではなく、人生の老成者の淡々とした叡智、一筋縄でゆかぬ腰の据わった粘り強さと持つ老練な処世です。そう言えば、現代中国語では、「教師」は「先生」ではなくて、「老師lao3shi1」です。「先生」はさしずめ「おっさん」程度の意味でしょうか。

引用して返信編集・削除(編集済: 2024年02月28日 14:38)

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