老子でジャーナル
老子第8章
上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して而も争わず、衆人の悪(にくむ所に処る。故に道に(ちか)し。居るには地が善く、心は淵(ふか)きが善く、与(とも)にするは仁なるを善しとし、言は信あるを善しとし、正(おきて)は治まるを善しとし、事は能あるを善しとし、動くには時なるを善しとす。それ唯(た)だ争わず、故に尤(とが)め無し。
最上の善とはたとえば水のようなものである。水は万物に恵みを与えるが万物と争うことはせず、人々のイヤがる低湿の地を住処(すみか)とする。だから無為自然の道のあり方に近いのだ。居所としては大地の上が善く、心のあり方としては淵のように深いのが善く、仲間としては仁者が善く、言葉としては真実なのが善く、政法(おきて)としては世の中がうまく治まるのが善く、事に処しては有能なのが善く、行動としては時宜を得ているのが善い。水もまたこれらの善をことごとく備えていると言えるであろう。水の偉大さは万物に順って争わぬということにあるが、争わぬからこそ過失もなく咎め立てもないのである。
※浩→ここでは、老子的な聖人の無為自然のあり方を「水」に譬え、水のごとく低きに就き他人と争わない最上の処世を説明しています。他人のために大いなる寄与を果たしながら、他人の賤しみと侮りに堪え、決して自己を主張しすぎず、弁解もしない聖人の“不争”の処世を強調しています。「上善」は最上の善徳のことです。善悪相対的な善と区別しています。そういえば、アリストテレスは「最高善は幸福」と言っていました。ここでの「善」は「目的」という意味でもあったと記憶しています。そうすると、これは「人間の目ざす究極目的は幸福」ということになります。何か顔がほころんできそうです。アドラー心理学に似ています。
イエス・キリストは「幸いなるかな、柔和なる者、彼らは大地を受け継がん」と言い、パウロは「おのおの謙遜をもて互いに人を己れに勝れりとせよ。……われはいかなる状(さま)に居るとも足ることを学びたり。……神は己を虚(むな)しゅうし、僕(しもべ)の貌(すがた)をとりて人のごとくなれり」と言い、アウグスティヌスは神の本質を問われて、「一にも謙遜、二にも謙遜、三にも謙遜」と言いました。老子の不争は神の愛と智をよりどころとするのではない、と福永光司先生は解説されます。老子は神という人格的な絶対者の存在を否定するだけでなく、愛や智という人間くさい言葉をも同時に否定します。何かスピリチュアルな感じがします。彼は人格的な神の代わりに、非人格的な「道」を立てて、人間的な愛や智の代わりに一切の人間的なものを遮絶する非情な無為自然を説きました。ここでは「水」が至善(道)の譬喩として挙げられています。水は人間のように作為の心を持たず、愛の感情も智の働きも持たない。水はただ無心で自然です。それは無心であり自然であるから、「道に畿(ちか)い」とされるのです。「同じ」と言わないで「畿い」と言うのは、有形と無形の違いからです。人間社会のあらゆる争い──競争や紛争や闘争・戦争などは、要するに人智・人欲の所産です。したがって人間が争いのない社会を実現しようとするなら、争いの根源である人智・人欲を抑止して、流水のように自然な存在、無為無心を志向するほかないのです。アドラー心理学では「競合的」な縦の関係のために世の中に犯罪や戦争が起こりますから、協力的な横の関係を構築して平和を実現しようと考えています。アドラーはそれを初めは社会改革で実現しようとしましたが、ロシア革命を見て断念しました。革命前と同じじゃないか。人民の生活はまったく変わらない。権力者が入れ替わっただけじゃないか。そこで、個々人の育児・教育による啓蒙に方針転換したのです。競合的な・狂気の社会から、協力的な正気の社会へと。そういえば、私の母はよく「倒されし竹は静かに起き上がり、倒せし雪はあとかたもなし」と言っていました。今の世の中、他人の好意によって自分が助かっても、知らん顔している人が多いです。人と人の往来を見ても、車の行き違いにしても、相手に少しでも譲ろうとする感覚はほとんどありません。それでもたまに譲ってくれる人に出会うと、それだけで心が満たされます。老子の説く「謙下不争」を多くの人が心がければ、確かに世の中はもっともっと住みやすくなるでしょう。