老子でジャーナル
老子第10章
営魄(えいはく)に載(のり)て、能(よ)く離るること無からんか。気を専(もっぱら)にし柔(じゅう)を致(きわ)めて、能く嬰児たらんか。玄覧(げんらん)を滌除(てきじょ)して、能く疵(そこな)うこと無からんか。民を愛し国を治めて、能く無為ならんか。天門開闔(かいこう)して、能く雌(し)と為らんか。明白にして四達(したつ)し、能く無知ならんか。これを生じこれを畜(やしな)う。生じて有せず、為して恃(たの)まず、長じて宰(さい)せず。これを玄徳(げんとく)と謂う。
生命の車に乗って、無為の道をしっかり抱き、片時も離れることがないようにできるか。精気を外に洩らさず、心身の柔(しなや)かさを保って、その生い生い(ういうい)しさは嬰児のようであるか。心の鏡の汚れを拭い、人の世の塵がそれを傷つけることがないようにできるか。人民を愛し国を統治して、人為のさかしらを棄てることができるか。天の門が開いたり閉じたりする(生死のうつろう)ときに、女性(にょしょう)のようにただ身を委ねることができるか。心を国土のすみずみまで行きわたらせて、何の手出しもせずにいられるか。(ものを)生み出し、それらを養い、それらを生み出してもわがものだと主張せず、それらを働かせても決してそれらにもたれかからず、その長(かしら)となってもそれらを操ることをしない。これが神秘の徳と呼ばれる。
※浩→ここの解釈は一苦労です。学者によってずいぶん違います。仕方ないので、福永光司先生と小川環樹先生のをないまぜにして、私なりに強引にまとめました。3日かかりました。
福永先生は、無為自然の道を体得した聖人の、嬰児のごとく柔軟で、女性のごとく不死身で、無為の為、無知の知によって偉大な教化を成し遂げていくその不可思議な人格性──「玄徳」を説明しています。
「営魄」は「活発な生命活動を営んでいる人間の肉体」です。「気を専にし柔を致めて、能く嬰児たらんか」は「体内の精気を消耗させないよう完全に保って、大人の淫らな欲望にかき乱されない嬰児のように、この上なく柔軟な精神と肉体を持つ」という意味でしょう。「玄覧」は心を「霊妙な鏡」に喩えています。「天門開闔(かいこう)して、能く雌と為らんか」も難解で解釈が分かれます。「天門」を「玄のまた玄、衆妙の門」と同義とみると、天門すなわち玄妙なメスの性器を開いたり閉じたりして異性と接触し、子どもを産める女でありたい」となります。なんとなまめかしい!別の解釈では、「天門」をかなり高度の哲学化された概念として、「有ることなし」つまり「無=道」と同義語とするか、あるいはまた「天門」は人間の叡智の根源を意味する内面的な概念とする解釈もあります。天の造化の門が開くと万物が生成減少し、それが閉ざされると消失死滅する。その生滅変化に対して女性のように従順な受け身の精神で虚心に応接していくと、一応結論しておきましょう。「明白にして四達し、能く無知ならんか」は、事理明白にして通達せざるなき叡智を持ちながら、愚者としてふるまえるという意味でしょう。
『老子』の神秘主義的傾向が、ここは特に著しいです。土着思想の真骨頂と言えそうです。「天門」にあたるものは、人間の体では「鼻」です。鼻だけでなく「口」をも含むという説もあって、それで女性の性器と関連づけられるのでしょう。人間の性生活になぞられて天地生成のはじめを説くのは、日本でもイザナギ・イザナミの尊の例があります。他のところで、野田先生による「土着思想批判」をたっぷり読んでいて、「老子」とは相容れないことが多いですが、両論併記という手もあります。土着思想だとはっきり認識しながら、読み進めていきます。自己点検の貴重なベースとなりますから。