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スレッドNo.88

老子でジャーナル

老子第13章
 寵辱(ちょうじょく)には驚くが若(ごと)し。大患(たいかん)を貴(たっと)ぶこと身の若くす。何をか寵辱に驚くが若しと謂(い)う。寵を上と為し、辱を下と為し、これを得ては驚くが若くし、これを失いては驚くが若くす。これを寵辱に驚くが若くすと謂う。何をか大患を貴ぶこと身の若くすと謂う。吾れ大患有る所以(ゆえん)の者は、吾れ身有るが為なり。吾れに身無きに及びては、吾れ何の患(うれ)いか有らん。故(ゆえ)に身を以(も)ってして天下を為(おさ)むれば、若(すなわ)ち天下を托(たく)すべし。

解釈A
 世俗の人々は愚かにも、世間から寵愛を受け、もしくは汚辱を与えられることに心をびっくり仰天させ、また、大きな患(くるし)みの原因となる世俗的な欲望(価値)を大切なわが身と同じように貴重と考えている。寵辱に驚くが若くすとは、どういう意味か。それは寵愛を上(すぐ)れたものとし、汚辱を下(おと)ったものと考えて、ひたすら寵愛を求めて汚辱から遠ざかろうとし、それがうまくいけば有頂天になり、うまくいかなければ心を驚動させることを言う。大患を貴ぶこと身の若くすとは、いかなる意味か。そもそも自分に大患(大患の原因となる名利の欲望)があるわけは、自分に身(欲望の衆多としての生命)というものがるからであり、己れに身というものがなくなれば、己れに欲望の患しみなど何も有りえないのである。つまり、わが身(生命)こそ大患(世俗的な価値や欲望)よりも根源的なものであるのに、大患を身のごとくに尊ぶ、すなわち両者を等価値に観ようとするところに世俗の迷妄があるのだ。だから、自分の身だけを大切にすることが、天下のためにすることより強ければ、そういう人にこそ天下を預けることができるであろう。自分の身だけをいとおしむことが、天下のためにすることより強ければ、そういう人にこそ天下を引き受けされることができるであろう。

解釈B
 聖人は世俗の寵辱(栄辱)に対しておっかなびっくりの慎重な態度をとり、大いなる患(くる)しみをともなうもの、すなわち世俗の富貴、もしくはそれを極限的に象徴する帝王の位をわが身と同じように貴重なものと考える(両者を等価値に考えてわが身を大切にする)。寵辱に驚くが若くすとは、どういう意味か。世間の人間は、寵を上、辱を下とするが、寵こそ実は下(辱)なのである。寵辱の表裏一体姓を諦観する聖人は、寵を得ても心を動かし、寵を失っても心を動かす、すなわち、寵を失って慎重な態度をとるばかりでなく、寵を得ても慎重な態度をとる。大患を貴ぶこと身の若くすとはいかなる意味か。そもそも己れに帝王の位があるわけは、このわが身があればこそである。このわが身というものがなくなれば、帝王の富貴もありえないわけであるから、聖人はこのわが身を大切にするのである。だから、自分の身だけを大切にすることが、天下のためにすることより強ければ、そういう人にこそ天下を預けることができるであろう。自分の身だけをいとおしむことが、天下のためにすることより強ければ、そういう人にこそ天下を引き受けされることができるであろう。

※浩→なんとややこしいこと!。ここでは、真の意味でわが身を大切にし、おのれの生命を愛惜する人間であってこそ、他人の生命をも大切にし、他人の生き方にいとおしみを持ちうること、そのような人間であってこそ、天下の政治が任せられることを明らかにしています。一見、自己中心のようですが、「真の意味で」というところがミソだと思います。はじめから「己れをあとまわしに、他人を優先する」という考えは用心しないと“偽善”になってしまいます。「人のため人のため」と言いながら、実は結局「己れのため」であることがよくあります。「世のため人のため」と大げさにさわいでいるほど怪しいです。親が子どもに何かを要求するときによく言います。「あなたのためを思えばこそよ」と。文字どおりには子への親の愛のようですが、その正体は親の世間体であったり、親族への見栄であったりして、結局自分の利益のためであることが多いようです。こういうときは、「親のわがままで言うんだけど…」とでも言うほうが誠実です。
 まず「自分が大事」、だから「自分が大事なように他人も大事」と考えるほうが誠実な感じがします。人間の究極的な欲求は、「自己保存」と「種族保存」です。そのためには人は「社会」に所属しないと生きていきにくいです。その社会に良い形で所属できるには、社会に役立つ人でないといけないです。どうやって役立つかは、人によって違いますから役割分業が生まれてきます。アドラー心理学の基本前提に「社会統合論」というのがあります。人はバラバラな存在ではなくて、社会という大きな全体に組み込まれている存在です。ネットワークという言葉でよく理解できます。
 「自分の身だけを大切にすることが、天下のためにすることより強ければ、そういう人にこそ天下を預けることができるであろう。自分の身だけをいとおしむことが、天下のためにすることより強ければ、そういう人にこそ天下を引き受けされることができるであろう」。これで思い出すのは、例えばヒトラーという独裁者はとても禁欲的だったと聞いたことがあります。こういう人と一部の政治家のように私利私欲に執心の人と、どちらが政治家としてふさわしいのでしょう?「人を知る」とは「己れを知る」こととも言われます。私利私欲にかぶれている政治家のほうが安全だと、野田先生がおっしゃったような気がします。

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