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スレッドNo.90

老子でジャーナル

老子第14章
 これを視れども見えず、名づけて夷(い)と曰う。これを聴けども聞こえず、名づけて希(き)と曰う。これを搏(う)てども得ず、名づけて微(び)と曰う。この三者は致詰(ちきつ)すべからず、故に混(こん)じて一と為す。その上は皦(あきら)かならず、その下は昧(くら)からず。縄縄(じょうじょう)として名づくべからず、無物(むぶつ)に復帰す。これを無状(むじょう)の状、無物の象(しょう)と謂う。これを惚恍(こつこう)と謂う。これを迎えてその首(こうべ)を見ず、これに随(したが)いてその後(しりえ)を見ず。古(いにし)えの道を執(と)りて以て今の有を御(おさ)む。能(よ)く古始(こし)を知る。これを道紀(どうき)と謂う。

 目をこらして視ても見えないから「夷」──色がないと言う。耳を澄まして聴いても聞こえないから「希」──声がないと言う。手で打ってみても何も手応えがないから「微」と言う。この三つ言葉では、まだその正体が規定しつくされない。だから、この三つの言葉を混ぜ合わせて一つにした存在なのだ。その上部は明らかでなく、その下部は暗くない。だだっ広くて名づけようがなく、物の世界を超えたところに立ち返っている。これを「状(かたち)なき状、物の次元を超えた象(もの)というのだ。これを「惚恍」──ぼんやりとして定かならぬものと言うのだ。前から見ても、その頭が見えるわけでなく、後ろから見ても、その尻が見えるわけでない。太古からの真理を握りしめて、今も眼前の万象を主宰している。歴史と時間の始源を知ることのできるもの、それを道の本質と呼ぶのだ。

※浩→老子の「道」を哲学的に説明する文章として、第一章、第二十五章などとともに古来有名な箇所です。第一章では、道の無名にして玄のまた玄なるあり方を、第二十五章では天地に先だちて生じ寂たる寥たるあり方を説明しています。ここでは、道の無色、無声無形、人間のあらゆる感覚的知覚的な把握を超えながら、なお惚たり恍たる万象の根源に実在する、不可思議な形而上的な性格を説明しています。
 ほとんど福永光司先生の受け売りですが、老子の哲学は、今有るものがやがて失われ、今生きているものがやがて死に、あらゆる形有るものが形なきものに帰っていくという無常性の根底に有常性──“常有るもの”を凝視するところから成立します。それを支えているのは、人間がもはや死ぬことを考えることなしには、生きることが考えられず、無いことを考えることなしには有るものが考えられないという、滅びと失われへの覚醒だという、冷酷な真理への諦観です。孔子は、合理主義・現実主義で、「子は怪力乱神を語らず」「いまだ性を知らず、いずくんぞ死を知らん」と言うように、確かに「死」から「生」を理解する思想家ではなかったです。孔子の説く「道」は“人倫の道”すなわち「仁」や「礼」です。老子の「道」は、物としての存在を超えたもの、あらゆる形有る物がその形を失って帰一するところですから、物のない──「無物」と呼ばれ、色無く声無く形無きもの、「夷」「希」「微」としての「道」です。釈迦は「無常」「無我」と言い、龍樹は「五蘊皆空」と言い、ただ「無い」というだけで、それを超えたものが有ると言いませんでした。「真の知者は愚鈍に見える」とか、「リスクをおそれない者が多くを得る」とか、「負けるが勝ち」とか。「急がば廻れ」とか。
 以前NHKの「チコちゃんに叱られる」で、「急がば廻れ」の由来が出題されました。英語ではWalk don't run.ですが、由来は京都の誓願寺の僧・永楽庵策伝の「醒睡笑」にある和歌だそうです。すなわち、「武士(もののふ)のやばせのわたりちかくとも 急がばまわれ瀬田の長はし」。矢橋(やばせ)は近江八景のひとつ「矢橋の帰帆」で有名ですが、江戸時代には東海道と中山道が交わる交通の要所でした。で、矢橋から舟で琵琶湖を行けば都への短絡コースなのですが、その琵琶湖は比叡降ろしという強風でしばしば湖面が荒れて、舟の航行の妨げになったそうです。そこで、回り道でも東海道で瀬田の唐橋を渡るほうがかえって早く都に着いたそうです。この番組は勉強になります。でも、知った知識はどんどん忘れて行きます(笑)。

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