MENU
44,165

スレッドNo.96

老子でジャーナル

老子第17章
 太上or大上(たいじょう)は下(しも)これ有るを知るのみ。その次は親しみてこれを譽(ほ)む。その次はこれを畏(おそ)れ、その次はこれを侮る。信足らざれば、信ざられざる有り。悠(ゆう)としてそれ言を貴or遺(わす)れ、功成り事遂げて、百姓(ひゃくせい)皆我を自然と謂(い)う。

 最も理想的な君主と言うのは、民衆はただその存在を知るだけで何をしているのかわらないくらいで良いのだ。次に良い君主は民衆がその功績を讃えるような君主で、その次は法と罰を厳しくして民衆が恐れるような君主で、その次は民衆から愚かだと侮られるような君主である。君主が誠実さを欠いて余計なことをすると民衆からの信頼を失うものだ。だから理想的な君主は悠然としてめったに口を挟まず、人々が力を併せて事業を為すようにさせて、民衆が「我々の力で国が良くなった」と自らを誇れるようにするのだ。

※浩→前の章で、“命に復(かえ)り常を知る”聖人の安らかな処世を説明しましたが、ここでは、支配者として民に臨む聖人のあり方が、儒家の徳治主義、法家の法治主義との比較で説明されています。
 浄土真宗の開祖・親鸞は「わがはからわざるを自然(じねん)と申すなり」と言ったそうですが、「自然」とは“わがはからい”を捨てること、つまり人為人知のさかしらを否定することで、「おのずから然ること」、本体的にそうであるがままであるということです。これは、私たちが日常、失敗したときによくわかります。余計なこと・しなくてもよかったことをして、「しまった!」と後悔します。私のよくあった失敗は、だいたいやりすぎです。典型は「食べ過ぎ」で、あと腹痛でひどい目に遭います。手先が不器用で、ネジなどつい締めすぎて、ネジ山をなくしてしまいます。マグカップにコーヒーを入れすぎて、運んでいる最中にバランスを崩して床にこぼすとか……。
 自然とは、あるがままということですが、老子はまずそのあるがままなるものを天地造化の具体的な営みに見ます。天地造化の営みは、人間のように作為技巧を弄したり、己れを意識しすぎて不当に力み返ることもない。人間のように己れの行為を仁愛や正義によって規範づけたり、権力や刑罰によって強制し威嚇することもない。そこでは人間のするようなことは何ひとつ為されなくて、しかも人間の力では及びもつかない偉大な仕事がやってのけられている。天地はただあるがままに存在し、もの言うこともわめき立てることのないが、春になれば草木が芽吹き、夏になれば枝葉が生い茂り、秋になれば豊かに実を結ぶ。万物のこのような生成化育の相(すがた)を天地造化の営みとして把握し、その営みをおのずから然るもの、すなわち自然として理解します。そしてその生成化育の最も純粋な相を人間の人知人為──都市の文明文化に汚染されない田園山野のたたずまいの中に確認します。そのさまはのちの八十章に、「小国寡民什伯(じゅうはく)の器有りて用ゐざらしむ。…」と具体的に述べられていますから、ここでは省略します。
 ただ、ここまで原始・古代の生活に戻ることは不可能ですから、野田先生がおっしゃっていたように、マインドによる利害打算をなるべく抑えて、ボディーの欲を必要なだけ満たして、人のことや未来のことも考慮するハートに目ざめた暮らしをしていくしかないのでしょう。私たちはともすれば、何事もやり過ぎる傾向があります。そんなときよく、やはり野田先生がたびたび引用された道元のフレーズ「花は惜しんでも散る。雑草は嫌がっても生える」を思い出して、慎むことにしています。どう考えても、人類はやり過ぎましたね。地震の多発や火山の突然の大噴火、不純な天候は一体何でしょうか。人間によるやり過ぎのしっぺ返しなんでしょうか?

引用して返信編集・削除(未編集)

このスレッドに返信

このスレッドへの返信は締め切られています。

ロケットBBS

Page Top