アイビーの俳句鑑賞 その1
アイビーの俳句鑑賞 その1
もてなしの水羊羹に銀の匙 (束束子)
食べ物の句はうまそうにつくるべし、と言うのが私のポリシー。まして水羊羹とあれば清涼感が無くてはならない。銀の匙が心地よいアンサンブルを醸し出している。「もてなし」「水羊羹」「銀の匙」の三つの名詞を助詞で繋いだだけの俳句だが、いかにも清涼感が漂ってくる。このあたりが俳句巧者の技だろう。
滝壺に落ちて自由になりし水 (蜜豆)
最高点の大西日の句に次いで高点を集めた。滝の水が滝壺に落ちて、一切の束縛から解放され自由になったという面白い着眼の句。そういわれると何やらそんな気がしてくるから不思議だ。擬人法を駆使した句だが、本来、無機物の水に「自由」とは言い過ぎじゃないかという異論はあり得るだろう。もう少し温和しい表現にすれば違和感も解消できるが、作者の作句意図を優先すべきだろう。
羅を着て闊達な関西弁 (桃)
羅は「うすもの」と読む。様々なイメージを呼び起こす季語だ。状況の説明が省略されているので、読み手の方でイメージするしかない。私は料亭か宿の女将を想像する。センスのよい着物を着て、てきぱきと指図をする女将。女将の号令一下、滞りなくりなくことが運ばれる。指図自体は結構きついのだが、トーンの柔らかい関西弁が和らげている。関西弁の効用か。
墨絵めく景となりたる夕立雲 (エミ)
夏の夕立は、「一天にわかに掻き曇る」という慣用句がそのまま当てはまる。豊かな夏の色彩が一瞬にして色を失い、真黒な雨雲が空を覆う。この気象条件の急激な変化を墨絵に喩えた作者の的確な比喩に共感する。
ガターして泣くほど悔しソーダ水 (コビトカバ)
夏籠漫画の量の増すばかり (コビトカバ)
両句とも、若い世代ならではの句だと思う。いずれも従来の常識では俳句の題材になり得なかったものだ。若い世代の生活実感を俳句にしたが、飾らない表現に好感が持てる。新しい時代には新しいライフスタイルがあって当然で、ともすれば現実の生活実感と遊離した、よそ行きの気取った俳句が評価されがちだ。コビトカバさんには、こうした旧弊を打破して欲しいものだ。
あをすだれ離婚届の楷書文字 (かをり)
虚実皮膜の間を地で行く「かをりワールド」が炸裂した。もっともご本人の解説によれば、身内の方の事実に基づく句とのことだが、区々たる事実関係のデテイルより俳句自体の文学性を重視したいと思う。あをすだれと離婚届けの楷書文字という、一見何の脈絡もない二つの事柄が、一句の中でどういう化学反応を起こすか、成否はここにかかっている。下世話な表現をすれば、三振かホームランの句であり、シングルヒットや内野安打はあり得ない。
数分の徳川園の梅雨晴れ間 (無点句) 」
惜しくも無点になってしまったが、どうすればよかったか一緒に考えてみたい。読者が迷うのは徳川園に滞在した時間が数分なのか、梅雨の晴れ間が数分しかなかったのか、どちらともとれる点だ。語順を変えれば簡単に解消できる。数分の梅雨の晴れ間に徳川園 これで意味は通じるが、作者が徳川園で何をしたのか、読者が一番知りたいことが分からない。アイビー流に直せば、束の間の梅雨の晴れ間の庭めぐり
以下次号、不定期掲載
アイビーさん、こんばんは。
離婚届の楷書文字はすぐに出来ました。
詠みませんでしたが基本、端座が心象にありました。
楷書文字⇔端座⇔青簾 なのでぎりぎり下世話にならずに。
去年の穴惑ふ のほうがずっと下世話ですが高得点だったのでそちら風が受けるのかなあww
サイトの雰囲気に忖度せず、自分が詠みたいように自分のために詠む姿勢です。
おやすみなさいませ。
生活の中で起こるちょっとした事と季語との取り合わせを考えるのが楽しい今日この頃です。
鑑賞頂いて嬉しいです^_^
アイビーさんありがとうございます。 初めて行きたかった徳川園に娘と行きベテランガイドに滝の前で数分待てと言われました。滝が流れだしてガイドさんの自慢顔と見事な滝の流れでした。アイビーさんありがとうございます