アイビーの俳句鑑賞 その4
アイビーの俳句鑑賞 その4
例によってアイビーの俳句鑑賞3原則に則ての感想です。お気に障ったら平にご容赦。
登高や眼下に甲府広がりぬ (ちとせ)
登高は重陽の日の仕来りに起源があるようだが、現在では秋に観光で小高いところに登ることを言う。必ずしも丘や山でなくても神社仏閣や塔に上ることでもよい。作者のちとせさんは山梨県に旅行された時のことを詠まれた。眼下に広がる甲府全景に息を呑み、しばしの感動に声を上げることも忘れたほどだ。この得難い体験を俳句にした。俳句の楽しみ方は様々だが、この句のように日記として、あるいはブログとして、あの時にこんなことがあったなあと振り返ってみるのも楽しい。
緑蔭に入りて己の影を解く (ナチーサン)
夏の日差しは強烈であるのみならず、日向と日陰のコントラストが極端だ。強烈な日差しから、一転、日陰に入った時、自分自身の影が緑陰の蔭に吸収同化される。その視覚に訴える感覚を、作者は「己の影を解く」と表現したが、まことに言い得て妙。抽象的な事柄なのに、言葉でズバッと本質をついた。
らんまんの寿恵子は眩し秋の星 (茶々)
もし違っていたら大変失礼なことだが、座五の「秋の星」は亡き人を象徴している、と思えてならない。亡き人とは誰か、前段に登場する寿恵子さんと考えるのが自然だろう。らんまんな性格で、眩しと言っているところに茶々さんの慈しみの気持ちが見てとれる。おそらく茶々さんが生涯かけて愛情を注いで来られた、どなたかへの追慕の気持の気持ちと想像する。脳裏に今も残る寿恵子さんのらんまんな仕草、胸を打つ。
かなかなの罠があるかも松林 (大和)
「かなかなの罠」というのが何ともミステリアスで、とりもなおさずこの句の魅力となっている。それにしてもかなかなの罠とは一体何か、考え出すと夜も寝られなくなりそうだ。そこへもってかをりさんが、かつて「かまきりの罠があるかも畦つづく」という句をつくられたとか。秋は百鬼夜行の季節です。
パンプスの減つたヒールに残る夏 (かをり)
パンプスの減つたヒールに、終ろうとする夏の喧騒を象徴させた。とりもなおさず、自身の青春への挽歌と解しては深読みのし過ぎか。とまれ、かをりさんらしい雰囲気のある句になったと思う。ただ私の好みからすれば、一物仕立てより、中七に切れを入れ、二句一章にしたかった。「残る夏」もやや緩慢に響くので「晩夏光」としてはどうか。ま、あくまで好みの問題だが。
一葉落ち足早というふ齢かな (無点)
惜しくも無点句となったが、秋の寂寥感が漂い、雰囲気のある句。「一葉落つ」は「桐一葉」と同義。桐一葉と言っただけで秋の到来を感じさせてくれる。言わんとするところを季語が助けてくれる。この呼吸を勉強したい。
ご馳走は素麺すする主人(あるじ)留守 (無点)
これも惜しくも無点句となったが、情景としては面白い句だ。少し整理したら入点が期待できるように思う。
アイビー流に詠むと 菜(さい)も無く素麺すする夫不在
アイビーの俳句鑑賞 完
かをりさんへ
切れ字「や」「かな」「けり」を使うととかく大袈裟になってしまうのを嫌う方は多いです。字数が足らず、苦しまぎれに「かな」を使いますが、本来「かな」には詠嘆のニュアンスがありますから、そこだけ浮いてしまいます。必然性の無い切れ字は安易に使うべきではありません。さりとて切らないと、俳句が平板になってしまい、それ以上世界が広がらない憾みがあります。難しいですね。
パンプスは元句は
アイビーさん、ありがとうございます。
パンプスの減つたヒールやけふ厄日 でした。
中七を「や」で切るのは古臭いといわれ(ここは先達に問いたい)一物になりました。
一葉落ち足早というふ齢かな
ただ実感ですね。拾っていただき感激です。
やっと秋らしい風となりました。
朝ドラでしたか。疎いもんで気がつきませんでした。
らんまんの寿恵子は眩し秋の星 (茶々)
アイビーさんの句評を拝見しまさしくズバリ、「座五の「秋の星」は亡き人を象徴している」のです。それは朝ドラ「らんまん」の寿恵子。傘寿の茶々さん、どうも女優の「浜辺美波」に心揺さぶられているようです。特に丸髷姿に。
以下は、以前彼から受け取ったメールの一部です。
「牧野富太郎著作の植物図鑑を以前買っていましたので、その中に略歴が載っており妻の寿恵子さんは55歳くらいで亡くなっておられます。9月でらんまんのドラマは完結の運びのようです。ドラマが楽しみです。現代女性はパーマ、味気ないです。丸髷が美しいですね。