アイビーの俳句鑑賞 その4
アイビーの俳句鑑賞 その4
マネキンも服を脱ぎたる暑さかな (船町)
何ともとぼけた味わいの句だ。マネキンが衣服を脱ぐわけはないから、店員が脱がせたに違いない。が、あまりの暑さにたまりかね、マネキンが自分の意志で服を脱いだような言い方である。この強引さがよい。自信満々に言い切ってしまえば「言ったもん勝ち」である。くれぐれも怯んではいけない。
登園の子らはにぎやかミニトマト (にゃんこ)
毎朝、お母さんが保育園に送っていく光景を詠んだ。とにかく賑やかと言うか片時もじっとしていない幼児。成長の度合いによって大きい小さいがあるトマトではなく、粒の揃ったミニトマトに擬えたのは当を得ている。欲を言えば「にぎやか」がややパンチ不足で、具体的な行動に言及すればもっとよかった。
田の神てふ蛸の八ちゃん半夏生 (ナチ―サン)
半夏生という難しい季語に挑戦された。難しいと言うのは、例えば梅雨入りや初夏のように本意がはっきりした時候の季語と違い、半夏生には明確なイメージが湧かないからである。半夏生に田の神を配した意図は諒とするが、蛸の八ちゃんが分からない。その辺をご教示願いたいものだ。
七夕や三献酒盃友の幸 (茶々)
何時も感じてることだが、俳句における太陽暦と陰暦の扱いである。七夕は秋だが、保育園などは盛夏の7月7日にやる。これだと、梅雨が明けてないから肝心の星が見えない。掲句は新暦に依ったものと思われる。七夕と酒、取り合わせとしては悪くない組み合わせだが、句が三段切れになったのが惜しい。七夕なのか、三献酒盃なのか、友の幸なのか、何に主眼が置かれているのか分からない点が残念。
夏霧に車中の夫の困り顔 (無点)
惜しくも無点句になったが、実体験に基づく一句。濃霧で見通しが悪く運転の夫が難儀をした。その事情はよく分かるのだが、どう困ったのか、具体的なワードが一つあれば大分印象が変わったと思う。
パパ友のあちこち園の溝浚へ (無点)
この句も無点となってしまった。もともと器用で気のよい人だから、あちこちから応援の声がかかるのだろう。頼まれやすい人柄に焦点を当てるのも一案かなあ。「パパ友」は省いて構わないのではないか。
やっとかめ鏡に見入る夏はじめ (無点)
「やっとかめ」は名古屋地方の方言で「久しぶり」の意。何故、鏡に見入るのか、その理由が分からない。久しぶりに自分の顔をつくづく眺め、その感想、例えば「我ながら老けたなあ」とか、感想を述べる手もある。
アイビーの俳句鑑賞・完
にゃんこさん、ミニトマトでなければ成り立たない句ですね。感想はあくまでアイビー個人の感じたことですので、あまり真剣に思いこまないで下さい。
ナチ―サンさん、リプライ有難うございます。そう言えば、半夏生の日にスーパーへ行きますと、鮮魚売り場を大部分を占めて茹でだこを売ってます。
船町さん、コメントの一つ一つにとぼけた味があります。歳の功ですか。
田の神てふ蛸の八ちゃん半夏生 (ナチ―サン)
推敲句
田の神てふ蛸の脚召す半夏雨
アイビーさんの指摘を受け中七が言い過ぎと思い推敲しました。 ご指導いただければ幸いです。
アイビーさん、ミニトマトの句を鑑賞していただき、ありがとうございました。
推敲のアドバイスをいただき、ありがとうございます。
家の前は通学路になっていて、小学生、幼稚園児が通ります。
今は夏休み。登校、登園の賑やかな声もしばらくお休みです。
やっとかめ鏡に見入る夏はじめ (無点) ナチーサン
普段鏡とは無縁の私ですが、この度30数年務めたコミュニティーの役を降りたことからメールも途絶え何か心に隙間ができたことに気づき思わず風呂上りに鏡を見た次第。(感想はアイビーさん指摘の通り)最近スマホで時々写真を撮りますが、自撮りの設定で自画像が出てきてその解除が解らず戸惑ったりしています。ピカソなど多くの画家が自画像を残していますがその気持ちがよくわからない。女の方はほぼ毎日見ていると思いますがその気持ちが知りたいものです。人それぞれでしょうが。私の場合は飲み過ぎたおりにむくみを確認する程度です。
田の神てふ蛸の八ちゃん半夏生 (ナチ―サン)
半夏生の数日前コンビニの鮮魚コーナーに半夏生に関する広告があるのを見つけました。その中に半夏生に関する解説があり以下のように書かれていました。「我が国の農村信仰の一つとして神様は田に蛸を遣わした。蛸はその足を使って田を守った。故に農民は稲作にとって大事なその時期感謝の気持ちを込めて蛸を食した。」
という事で蛸に敬意を込めて切り身を購入、晩酌の友としました。
女の人の服を脱がせたことがないのでまあマネキンなら、そんなわけではありません。
マネキンが服を脱いだ現場はもっと深刻で50代前半の店主が亡くなり閉店やむなし。
それに伴う閉店セール中。マネキンが着ていたのが売れたのか裸になっていた。