アイビーの俳句鑑賞 その3
アイビーの俳句鑑賞 その3
老い重ねヤメヤメ多き盆支度 (和談)
盆用意は昔からの仕来りがあり、面倒と言えば面倒なもの。合理的に考えれば納得できないことが多い。ついつい省略が多くなる。その辺の機微を句にした。中七のヤメヤメが気になる。同じ材料でアイビー流に詠めば「年ごとに省略多き盆支度」。これだと大人し過ぎるかなあ。元に戻した方がいいかな。
退屈と言ふ十歳の夏休み (玉虫)
10点句とは別に8点を集めた句。私は、学校大好きな十歳の子、つまりは作者自身が色濃く投影されている、と見たがどうだろう。学校に行けない、遊びが出来ない、友達とも会えない、大好きな先生とも会えない夏休みは、それは退屈だろう。前向きで活発で物怖じしない子。当節のひ弱な子とは大違いだ。
青だらけ数多のシート花火前 (ヨヨ)
花火大会の始まる前だから、まだ昼の明るさが残っている。防火用の青シートが張りめぐらせている。目に触れるのはシートの青ばかりだ。開幕までにまだ時間がある、そんな花火の始まる前の一時を描写した。
最短の終末時計原爆忌 (てつを)
考えてみれば恐ろしい句だ。世界の核兵器保有国はアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮である。核兵器を使用する権限はこれら保有国の指導者である。アタッシュケースに収められた核のボタンは、エキセントリックな老人や自己肥大した独裁者に委ねられているのだ。こうしている間にも終末時計が刻々と時を刻んでいるでいる。
サーファーを捧げて白き波頭 (ナチ―サン)
嚶鳴庵句会にサーフィンの兼題で、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」に擬えた句が出されたが、この句からも北斎の大波が髣髴と連想される。スケールの大きい絵画的な構図を持った佳句。中七に「捧げて」言い止めたが、と言い止めたが、この句のキモである。あるいはあるいは賛否両論があるかも知れない。
雲海やこの世の果てに立つてゐる (ヨシ)
私も北海道のトマムに泊まった時に雲海を見たが、「この世の果てに」が決して大袈裟ではない印象を持った。作者は「立つてゐる」と言ったきり、感懐らしき言葉を言っていない。感動が大きければそれを表現する言葉は無い。万言を費やすことは無用だ。
サイレン一分八月の黙祷 (無点)
二度の原爆忌、終戦、お盆と8月は祷の月でもある。敬虔な気持ちが読み手に伝わる佳句だが、入点が無かった。表現が大人しい、控えめ過ぎた気もする。もっと大胆な感情の露出があってもよかったかなあ。
以下次号、不定期掲載
アイビーさん、退屈の句を鑑賞して頂きました。
一日に一つの事をやり遂げれば、良い日だったなあとこの頃は眠れます。
ところが十歳の子供の頃。寝ている以外動き回っていたのです。
夏休み、山には未だ山葡萄も実っていないのでつまらない。
今の私がその頃の私に会ったら、少しは教科書を開いたら?と言うかも知れません。
ついでに蝉の句です。
我家のまわりも空いた土地が無くなって、蝉が羽化しても行き場が無くなったらしく、
トネリコが三本有る庭に来て、ピークには50以上の蝉を見ることが有りました。
木に止っている蝉を捕まえるとみっちりと重さがあるのですが、地面に落ちてしまった蝉を拾って
花壇に寄せているとき、軽い!とビックリしました。ついさっき落ちたばかりの筈が。
命が抜けてしまったらこんなに軽くなってしまった。
魂は意外に重いのでは・・・
開発の進んでいる処に地面から出たとき、蝉は何とおもうのでしょう。
文句は言わず与えられた場所で、精一杯生き抜くのでしょうね。