アイビーの俳句鑑賞 その2
アイビーの俳句鑑賞 その2
大丈夫なんとかなるさ老の春 (ラガーシャツ)
このように自信満々に言われると、本当になんとかなると思えてくる。日本語には言霊が宿っているそうだから、良いことを言葉に出せば、本当に良いことが実現するのである。俳句の歳時記は旧暦をもとに編まれているが、実際の生活は太陽暦で回っているから、生活実感とチグハグになる。正月を初春などというが、実際は冬の真っ盛りだ。座五で言う「老の春」は正月のことと捉えたい。ただ、「老」はいかがなものか。「今朝の春」とでもすればスッキリした印象になるのだが。
福笑くくくふふふの二回戦 (玉虫)
「くくくふふふ」がまことに秀逸。オノマトペという技法があるが、擬態語のようでもありオノマトペのようでもある。どちらにしても言い得て妙だ。福笑いという遊びを表現するのに、ちょっと類例が思いつかないほどのユニークさだ。この句の成功は、いつに「くくくふふふ」の発見にあると言って過言ではない。
豚まんの湯気につつまれマイホーム (ふうりん)
名古屋や東京では「肉まん」と言うが、大阪では「豚まん」だ。有名なのが難波の蓬莱551だ。関西の人は豚まんが好きだ。出張の帰りなど、土産に近鉄の駅構内で豚まんを買うサラリーマンをよく見かける。家族もみんな豚まんが大好きなのだ。かくて家庭円満、四方丸く治まる次第。湯気が季語になる。
好きだったものみな棺に黄水仙 (てつを)
厳密には水仙は冬、黄水仙は春の季語となるようだ。このことはこの句の本質とは関係が無い。二句一章の句に、黄水仙が相応しい季語かどうかだ。派手さはないが肩を寄り添うように咲く黄水仙。きっと故人も黄水仙のような人だったのであろう。誠実な努力家、真摯で皆から好かれる協調性、そんな人物像が思い浮かぶ。この観測が当たっていれば、健気に咲く黄水仙は故人を送るにまことに相応しい。
新暦富士の高嶺に始まりぬ (ちとせ)
会社勤めをしていた時、年末になると取引先の会社から、手帳やカレンダーが山ほど届いた。今は予定が書き込める式のものもあるが、当時は6枚仕立てのものが大部分で、初頭の1月は雪を被った霊峰富士山が定番だった。大袈裟に言えば日本人の心の拠りどころとも言える。あるべきものが、あるべくところに落ち着く感がする。現代は様々な種類のカレンダーがあるが、結局は日本人の感性に訴える景物に回帰するのであろう。
坐りたる祖父元旦の餅の如 (ナチーサン)
威厳があって、なにをしなくても近寄りがたいのが一昔前の家父長。この句の場合は御爺さんになる。上座にデンと居座っているだけで存在感がある祖父。作者はそんな祖父を、なんと餅に喩えた。意表をつかれたが、よく分かる比喩だ。比喩はありきたりでは面白くないが、さりとて奇抜過ぎても共感が得られない。その意味で適度なユーモアもあり、秀逸な比喩で参考になった。
掃き寄する度舞い踊る枯葉かな (ヨヨ)
落葉の頃になると掃いても掃いても、次から次に落葉が降ってきて際限がない。それを根気よく掃くのだが、箕の中で、まるで生き物のように落葉が躍っている。「躍り」はとりもなおさず「踊り」に通じる。「躍り」を「踊り」と結びつけたところに作者の詩ごころがある。ただ、調べがやや冗長な感じがするので、もう少し推敲したい。アイビー流に詠めば 箕の中に踊つてをりぬ落葉かな
以下次号、不定期掲載
アイビーさんへ
拙句を選及び鑑賞いただきまして有り難うございました。私は祖父との出会いはなく二人とも写真での対面のみです。この句は母方の祖父です。俳句を嗜み和歌山は那智勝浦で開業医をしていたそうです。妣によるとホトトギス、熊野の同人で時には虚子を招いての句会もしていたそうです。私も歳を重ね時折熊野を開き「蝸牛」さんを偲んでいる昨今です。