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スレッドNo.5543

アイビーの俳句鑑賞 その2

アイビーの俳句鑑賞 その2

子供の日目高ポロポロ卵産み (ちとせ)
孫が観察用に飼ってる目高であろうか、卵を産むのに「ポロポロ」という表現が面白い。とかく「子供の日」の句は、子供が喜ぶような催しとか子どもが好きな食べ物の句が多い。ところが作者は目高を持ってきた。このあたり、作者の見識が窺える。厳密に言えば季重なりだが、まったく気にならない。

置かれたる筍メモの走り書き (ふうりん)
筍は茹でるまで時間をおくと風味が損なわれる。時間との勝負だ。知人が朝掘って、その足で届けてくれたに相違ないが、早朝の事とて、あり合わせの紙にメモして置いたのであろう。もとより走り書きだから、乱雑な字でよく読めない箇所もある。それでも知人の好意が嬉しく、早速筍をゆがいたことである。

あの恋は桜散る間に天国へ (ヨヨ)
桜は人生の節目節目に咲いていたような気がする。中にはこの句のように実らなかった悲恋もあったであろう。俳句に恋愛がテーマになることは皆無ではないが、非常に珍しい。あえて挑んだ作者に敬意を表したい。ただ、この句の場合は、作者自身の体験なのか、あるいは別のモデルがあるのか判然としない。ヒントも無い。桜と悲恋の取り合わせは悪くないだけに、消化不良の感は否めない。

この家に住める限りと草を引く (尾花)
名も無い雑草といえど生命を持つ。抜いても抜いても後から生えてくる。おそらく自分の人生が尽きても、草は生え続けるに違いない。若いと思っていた自分も、そろそろ終末を考えざるを得ない年齢になった。上五から中七の「この家に住める限り」というフレーズは、作者の実感であると同時に、選句した人達も圧倒的に共感があったに違いない。

曼陀羅寺頬に触れゆく藤の波 (和談)
愛知県の曼陀羅寺は藤の名所として知られる。毎年、藤のシーズンともなると県内外の観光客が押し寄せる。当該句は一歩間違えば、ただの凡句になりかねないところだが、中七の「頬に触れゆく」の措辞に救われた。体に感じる五感のうち、肌で感じる触感に重点を置いたところが非凡。座五を「藤の波」として平仄も合っている。

豪快に風呑み下す鯉幟 (にゃんこ)
5月の空に初夏の風を呑み込んで泳ぐ鯉幟。見ている私たちの方が伸びやかな心持になる。子どもの健やかな成長を願って立てる鯉幟。そんな日本人の心情にピタリと合った鯉幟を詠んだ佳句。出来れば「豪快」という言葉を使わずに、豪快さを表現して欲しかった。作者の語彙力からすれば、無理な注文ではないと思う。

無風てふ風のありけり藤の花 (てつを)
無風というのは風の無いこと。論理矛盾も極まった表現だが、俳句の世界ではありうることだ。藤棚の藤がかすかに揺れている。おかしい、風は無いのに揺れている。これを科学的に説明するのが学者。俳人は俳句をつくる。「無風てふ風のありけり」と把握したのが俳人の俳人たるところで素晴らしい。

以下次号、不定期掲載

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アイビーさん
アドバイスありがとうございます。
素晴らしい句に、鯉幟の大きな口が目に見えるようです。アイビーさんのような句は、なかなか(まだまだ)作れませんが、精進します。

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語彙力というより表現力と言った方が分かりやすかったかもしれません。豪快なものを「豪快」と言ってしまっては答えがすぐ分かってしまいます。すぐ分かる答えでは面白くもなんともありません。私の旧作に「鯉幟屋根職人を呑む構へ」というのがあります。参考になるのかどうか分かりませんが披露します。

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アイビーさん、拙句を鑑賞していただき、ありがとうございます。
「豪快」という言葉を使わずに、豪快さを表現する…おっしゃるほどの語彙力はありませんが、もう少し考えてみます。作句に悩むのも楽しみのうちですね。ありがとうございます。

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アイビーさん
「・・・草を引く」の句の鑑賞をありがとうございました。
抜いても抜いても絶えることのない草ですが、子育ての頃は「雑草のごとく強くあれ‼」と願いつついたもので心から憎いのではありません。この家に住める限りの草取りは実感です。

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