アイビーの俳句鑑賞 その3
アイビーの俳句鑑賞 その3
腹当は明日の元気を約束す (コビトカバ)
この句は「腹当」が季語。私は腹当をしているのは作者自身ではなく、育ち盛りの子どもを案ずる母親の立場で詠んだものと思う。「明日の元気を約束す」るのは、母親としての立場での述懐に相違ない。そう考えれば、この句の味わいは一層深くなる。勿論、作者自身はそうは言っていないが、言外の意図を汲みとるべきだろう。
朝戸開く外に暑熱が横たふる (ちとせ)
朝、戸を開ければ熱気がムッとする。やれやれ、今日も暑くなりそうだ。そんな気分を作者は「暑熱が横たふる」と表現した。一歩引いた表現ながら、説得力がある。天候相手に嘆くのは詮無いことながら、一種の倦怠感にも似た気分が上手く表現されている。
つかの間の生とも知らで蝉鳴けり (みにょん)
みにょんさんは、当ネット句会には初投句。これからもよろしくお願いします。蝉の一生は、ほとんど地中で過ごし、成虫として地上で鳴くのは短い。一週間ほどで死んでしまう。精いっぱい、命の限り鳴く蝉に、ものの哀れを感じた作者。何事かを感じるところから、俳句が始まる。
太陽のコロナ閉じ込めスイカ玉 (てつを)
俳句では「日」を使うことはあっても、「太陽」は使わないか、あってもごく稀だ。ベテランのてつをさんは、敢えて「太陽」を使った。使う必然性があったからに違いない。実際、この句の場合、「日」では夏の照り付ける陽光の気分が出ない。まして、中七で「コロナ」が出てくるからなおさらだ。
暑くなる予感小石に躓けり (ナチーサン)
二物取り合わせの句は、一見、関係なさそうで、微妙に関係ありそうな匙加減が難しい。その点、掲句は理想的な離れ具合と感じた。「即かず離れず」を再認識させてくれるような句。今日も暑くなりそう、うんざりすると言うより、「予感」とサラッと言ったのも良いと思った。
みちをしへ遥か先行く父の背ナ (玉虫)
「みちおしへ」は班猫(はんみょう)という昆虫の異名で、少し行っては立ち止まる、また少し行っては立ち止まる様子が,ちょうど道を教えているようだと名付けられた。壮年の父親の背中が途方もなく大きく見えた、幼年時代を回顧しての一句。父親の背中は幼い作者には、どう頑張っても追いつけないほど大きな存在だ。無言のうちに、人としての在り方、人生というものを教えてくれたのではないか。今さらのように気づく作者なのであった。
長崎の鐘の復元盆供養 (茶々)
名曲「長崎の鐘」で名高い大浦天主堂の鐘は、もともと鐘楼が二つあったと聞く。長崎原爆で大破して、一つだけになった。それが、米国のカソリック信者の手で今年復元されたことを、茶々さんが早速詠んだ。季語を「盆供養」としたが、ここは素直に「長崎忌」でよかったように思う。
以下次号、不定期掲載。
「原爆忌」だと広島、長崎の特定ができないので。この句の場合は長崎でなくてはなりませんから。
アイビーさんへ
長崎の鐘の復元盆供養 (茶々)
今回この句の鑑賞の際季語の斡旋について触れましたが長崎忌ですか、成程、私は原爆忌が浮かびましたが。いずれにしても季語の働きは大きいですね。
アイビーさんへ
暑くなる予感小石に躓けり (ナチーサン)
拙句取り上げていただき有り難うございました。私は句づくりの心得として身近な素材を平易な言葉で素直に表現することを心掛けています。その際季語の斡旋に苦慮していますが「即かず離れず」を心掛けていますがこれがまた難しい。「付き過ぎ」ることが多いです。妣が色紙等に俳画を添えていましたが絵の選択に苦労していたようですね。季語の重なりも避けたいところですが、生け花と同じで主になるものを添えとして支える場合は効果を発揮する場合もあります。やはり全体のバランスでしょうか。
アイビーさんへ
腹当の句も鑑賞いただきありがとうございます。
腹当は子供はもちろん、大人の方も腹巻で守ってる人いるだろうなと思って作句しました( ̄∇ ̄)